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法華経を読むその二十五:観世音菩薩普門品


観音様への信仰は、地蔵信仰と並んで日本の庶民にもっとも馴染の深いものだ。その観音様について説いたお経が、法華経の「観世音菩薩普門品」第二十五である。このお経は、単に「観音経」とも呼ばれ、独立した経典としても、よく読まれて来た。今日でも、各宗派にわたって読まれている。

観音様というと、千手観音とか十一面観音とか、あるいは馬頭観音とかいったさまざまなバリエーションがある。これは観音経のなかで、観音菩薩が相手に応じてさまざまな形に姿を変えて現われると説かれていることに基づいたものであるが、お経の中でそれらの形が具体的に言及されているわけではない。言及されているのは、梵天はじめ三十五の形象なのだが、それらの形象がいつの間にか、千手観音以下のイメージに転化したのだと思われる。

観音様はまた、女体のイメージで現わされることが多く、宝冠に化仏を戴いている特徴があるが、これらもお経の中で触れられているわけではない。観音信仰の広がりにともなって、あとから付加された特徴だと考えられる。

観音様は、西方浄土に住むとされ、これはお経でも言われていることであるが、阿弥陀如来の脇侍であるとは言われていない。おそらく西方浄土への信仰が、阿弥陀如来と観音菩薩を結びつけたのだと思う。

観世音菩薩とは、世音を観る菩薩という意味の言葉である。世音とは、この娑婆世界の有様のことをいう。その娑婆世界の有様を、あまねく観るというのが、このお経の説く所である。普門とは、あらゆる方向に開かれているという意味で、そのあらゆる方向に心を開きながら、娑婆世界の有様に気を配り、衆生を救済するというのが、このお経に説かれた観音様のあり方なのである。

お経は、無尽意菩薩が釈迦仏に対して、観世音菩薩について質問することから始まる。菩薩は問う、「世尊よ、観世音菩薩は何の因縁を以てか観世音と名づくるや」と。これに対して釈迦仏は次のように答える。「善男子よ、若し無量百千万億の衆生あって、諸の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩を聞きて一心に名を称えば、観世音菩薩は、即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得せしめん。若し是の観世音菩薩の名を持つ者あらば、設い大火に入るとも、火も焼くこと能わじ、是の菩薩の威神力に由るが故なり。若し大水に漂わされんに、其の名号を称せば即ち浅き処を得ん。若し百千万億の衆生ありて、金・銀・瑠璃・硨磲・碼碯・珊瑚・琥珀・真珠等の宝を求めんが為に大海に入らんに、仮使、黒風其の船舫を吹きて、羅刹鬼の国に飄わし堕しめんに。其の中に若し乃至一人ありて、観世音菩薩の名を称えば、是の諸人等は皆、羅刹の難を解脱することを得ん。是の因縁を以て観世音と名くるなり」と。

以下、刀に殺傷される難、身を鎖に繋縛される難、賊に襲われる難なども、観音菩薩の名を唱えれば逃れることができると説く。そのように、様々な人々から助けを求められれば、その一々に応えて救済してくれるので、娑婆のありさまは一つも見逃さないという意味で、観世音菩薩と呼ばれると言うのである。なお、以上を通じてひたすらに観音菩薩の名を称えることを、一心称名という。

観世音菩薩は、外的な災難から守ってくれるだけではない。心の中の乱れをも正してくれる。たとえば、淫欲、怒り、愚痴といったものも、観音菩薩を恭敬すれば脱却することができる。以上、外的な難と心の乱れを、七難三毒という。

また、女人が智慧のある男子を生みたいと望めばそのようになり、見目麗しい女子を生みたいと思えばそのようにしてくださる。観音菩薩を恭敬すれば、あらゆる願いがかなえられるのである。

釈迦仏がこのように言うと、無尽意菩薩は続けて次のような問いを発した。「世尊よ、観世音菩薩は、云何してか此の娑婆世界に遊ぶや、云何してか衆生の為に法を説くや。方便の力、其の事云何」。「遊ぶ」という言葉は「薬王菩薩本事品」でも使われていたが、意味は、自由自在に生きるということである。観世音菩薩は、この娑婆世界に現れて、自由自在に身を変えて、相手に相応しい教えを与える。その変身の様子は、妙音菩薩とほぼ同じである。変身の数は三十五にのぼるが、仏教者は三十三身と呼んでいる。具体的な数というよりは、非常に多いというニュアンスの言葉と思えばよい。

変身の一端を紹介すれば、次のようである。「若し国土ありて、衆生の、応に仏の身を以て度(すく)うことを得べき者には、観世音菩薩は即ち仏身を現わして、為に法を説くなり。辟支仏の身を以て度うことを得べき者には、即ち辟支仏の身を現わして、為に法を説くなり。声聞の身を以て度うことを得べき者には、即ち声聞の身を現わして為に法を説くなり。梵王の身を以て度うことを得べき者には、即ち梵王の身を現じて為に法を説くなり」。書き方は、妙音菩薩品とほぼ同じである。

観音菩薩の教えは、人々の怖れを取り除く。そこから無畏を施すと言われる。それゆえ観音菩薩は施無畏者とも呼ばれる。以上のやりとりが終わると、無尽意菩薩から観音菩薩への贈り物があり、観音菩薩がその贈り物を釈迦仏と多宝如来に差し上げたのちに、それまで説かれて来たことが、偈の形で繰り返される。妙音菩薩品には、偈の部分がないに等しかったのだが、観音菩薩普門品は、かなりまとまった偈を備えている。その偈の最後の部分に曰く、
  妙なる音・世を観ずる音 梵の音・海潮の音
  彼の世間に勝れたる音あり 是の故に須らく常に念ずべし
  念念に疑を生ずることなかれ 観世音の浄聖は
  苦悩と死厄とに於て 能く為に依怙と作らん
  一切の功徳を具して 慈眼をもって衆生を視る
  福の聚れる海は無量なり 是の故に応に頂礼すべし



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