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法華経を読むその二十:常不軽菩薩品


「分別功徳品」以下で、仏の教えである法華経を受持し、それを他人に広めることで、どんな功徳が得られるのかについて説かれた後で、実際にそれを実践して、功徳を得た人の話が説かれるのが「常不軽菩薩品」第二十である。いわば理論編に対する実践編といったところだ。

ここでは、釈迦仏が得大勢菩薩に語りかけるという形で進んでいく。まず、法華経を受持する者を罵り謗る者は大いなる罪の報いを受け、法華経を受持する者は六根清浄の功徳を受けると強調し、ついで、無限の過去に存在した威音王如来という仏のことに言及する。その仏は、声聞のためには四諦の教えを説き、僻支仏を求める者のためには十二因縁の教えを説き、菩薩のためには六波羅蜜の教えを説いた。

その仏は二万億回も再生したのであったが、最初の滅後の際に一人の菩薩が現われた。その名を常不軽菩薩という。そのわけは、およそ人を見ると脇へ近づいて行って、「我深く汝らを敬う。敢えて軽しめ慢らず。所以は何ん。汝らは皆菩薩の道を行じて、当に仏と作ることを得べければなり」と言って、その者を礼拝するからだった。その際の言葉、「汝を常に軽しめず」から、常不軽菩薩と呼ばれたわけである。

この菩薩は、経典を読むわけでもなく、それを他人に向って説くわけでもなかった。ただひたすら人に向って礼拝するのである。礼拝された者の殆どは、怒りを覚え、菩薩を迫害した。そしてこう言うのだ、「この無智の比丘は、何れの所より来たるや。自ら、我汝を軽しめず、と言いて、われ等がために、当に仏と作ることを得べし、と授記す。われ等は、かくの如き虚妄の授記を用いざるなり」と。

菩薩はいかに罵られても瞋恚の心を起こさず、ただひたすら人々に向って礼拝し、「汝は当に仏と作るべし」と言い続けた。菩薩がそう言ったわけは、すべての人には仏性がそなわっており、仏の教えを実践すればかならず成仏できるということをわかってもらうためだった。

常不軽菩薩は、臨終に及んで、威音王如来の教えを説いた法華経の言葉を聞き、それをことごとく受持したことで、六根清浄の功徳を得て、さらに無限に近い時間を生きた。その余りの時間の間にも、菩薩は法華経の教えを説き続けた。その結果ついには成仏することを得たのである。

この常不軽菩薩こそ自分の前身であると釈迦仏は得大勢菩薩に向って言う。前世に法華経の教えを受持していたからこそ、現世においてすみやかに悟りを得、仏となることを得たのだと言うのである。また、前世で常不軽菩薩を迫害した人々とは、いまここにいる修行者たちの前身だとも言う。これらの人々は、常不軽菩薩との逆縁を通じて、仏の道を目指すようになったのだ。逆縁とは、仏の教えに逆らって迫害したことが縁になって、かえって仏の教えに目覚めることを言う。それに対して、はじめから素直に仏の教えを受け入れることは順縁という。いづれにしても、法華経を受持し、それを他人に広めることが、成仏するための条件である。法華経を受持して疑うことがなければ、かならず成仏への道は開ける。

このお経は、次のような偈文を以て終わる。曰く、
  億億万劫より 不可議に至りて
  時に乃ち 是の法華経を聞くことを得
  億億万劫より 不可議に至りて
  諸仏世尊は 時に是の経を説きたもう
  是の故に行者は 仏の滅後に於て
  是の如き経を聞きて 疑惑を生ずることなかれ
  応当に一心に 広く此の経を説きて
  世世に仏に値いたてまつりて 疾く仏道を成ずべし
法華経は無限の過去から説かれていたというのである。仏は無限の過去から存在し、その仏の教えを法華経というわけであるから、法華経は無限の過去から説かれてきたわけである。

常不軽菩薩は、はじめは法華経の教えをそのまま説かず、ただひたすら礼拝したのだったが、その意味は、人々には仏性がそなわっていることを理解していたということにある。人に仏性が備わっているということは、大乗仏教の基本的な前提である。法華経はそれを詳細に説き広めたものである。それゆえ常不軽菩薩は、はじめは仏の教えを簡略に訴え、後には法華経を説き広げるという形で詳細に説いたと言える。いずれにしても、菩薩道の根本であるところの、衆生の教化という点では、常不軽菩薩はあらゆる菩薩の手本と言うことができよう。

宮澤賢治は法華経を受持し、その教えを自分の創作のうちにも取り入れた。かれの遺言というべき「雨にも負けず」にも、法華経のこだまが響いている。この遺言のなかの賢治は、人からデクノボーと呼ばれながら、人々のために身を砕く自分自身のイメージを打ち出している。そのイメージは、常不軽菩薩のイメージに重なる。おそらく賢治は、自分自身を常不軽菩薩と重ね合わせながらイメージしていたと思われる。かれが自分の遺言にそのイメージを持ち込んだことには、深い意味がありそうである。

賢治に限らず、我々凡人にも常不軽菩薩に学ぶべきことは多い。とりわけ、身を避けることは、身に着けたい姿勢である。身を避けるとは、迫害や攻撃に対して、立ち向かわずにひたすら身を斥けることである。我々凡人はとかく、人から非難・攻撃されるとすぐに反撃したくなるものである。しかしその多くは無用の争いに発展することになる。君子は無用に争わないものである。そのためにも、常不軽菩薩の身を避ける姿勢を身に着ける必要がある。



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