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法華経を読むその十七:分別功徳品


法華経の伝統的な解説では、「分別功徳品」第十七から流通分が始まるとする。流通分とは、原理論を踏まえた実践論というべきもので、正しい信仰を持てばどのような功徳があるか、また、正しい信仰を得るにはどのような実践をなすべきかを説いたものである。

「分別功徳品」は、三つの部分からなっていて、最初の部分は、「如来寿量品」の続きといってよく、如来の生命の永遠性をあらためて説いたものである。如来の生命の永遠性を知ることによって、衆生は、さまざまな功徳を得ることができる。お経はその功徳について、一々名をあげている。一に無生法忍、二に聞持陀羅尼門、三に楽説無礙弁才、四に旋陀羅尼、五に不退の法輪、六に清浄の法輪、そのほかそれぞれの境地に相応しい阿耨多羅三藐三菩提が得られる。

無生法忍の無生とは無生死ということである。無生法忍はだから、一切は生死を離れ不生不滅であるという真理を悟ることを意味する。仏が不生不滅であるように一切は不生不滅であることを悟る、というのが無生法忍の意味である。聞持陀羅尼門の陀羅尼とは、善を行ない悪を止める力のことで、総持ともいわれる。その陀羅尼をつねに聞持することを聞持陀羅尼門という。楽説無礙弁才とは、仏の教えをさまたげなく自在に説くことを願うという意味である。楽はここでは願うということを意味する。旋陀羅尼の旋は、めぐらすという意味で、仏の教えを自分だけで享受していないで、ほかの人たちにも広めることを意味する。不退の法輪を転ずとは、仏の教えを広く衆生に広めることであり、清浄の法輪を転ずとは、見返りを求めずに、純粋な気持ちで教えを広めることを意味する。

以上のことを仏が説かれると、弥勒菩薩がその内容を、偈をもって説きなおした。曰く、
  或は不退の地に住し 或は陀羅尼を得
  或は無碍の楽説 万億の旋総持あり
  或は大千界 微塵数の菩薩あって
  各各に皆能く 不退の法輪を転ず
  復中千界 微塵数の菩薩あって
  各各に皆能く 清浄の法輪を転ず
  復小千界 微塵数の菩薩あって
  余各八生あって 当に仏道を成ずることを得べし
用語に多少の異同はあるが、説かれている内容は同じである。弥勒菩薩の偈は、次の言葉で終わっているが、そこで如来寿量品から離れる。

仏寿の無量なることを聞いて 一切皆歓喜す
仏の名十方に聞えて 広く衆生を饒益したもう
一切の善根を具して 以て無上の心を助く
仏の寿命が無量なることを聞いて、みな歓喜した、仏の名は十方に聞こえ、広く衆生を救ってくださる、われわれが善根を積めば、無上の心を助けて下さる。無上の心とは、悟りを求める心。それを仏が助けてくださるというのである。

以上で原理論の部分が終わり、以後実践論の領域に入る。論題は、信仰を得ることによる功徳と、その信仰のために必要な修業である。まず、修業について。それに先立って、修業のための心得として一念信解ということが説かれる。一念信解とは、ただひたすらに仏の教えを信じることである。その信じる心が修業を支える。その修業の具体的なものとして釈迦仏がまず取り上げるのは、五波羅蜜である。五波羅蜜とは、六波羅蜜のうちの般若波羅蜜を除いた五つの波羅蜜で、具体的には、布施、持戒、忍辱、精進、禅定をいう。これらを修業実践することで、仏への信仰を深め、悟りに近づくことができる。

その仏の教えは、法華経に込められているので、仏への信仰は次第に法華経への信仰へと置き換えられていく。このお経の後段部分は、ほとんど法華経賛歌といってよい。我々衆生は、法華経を読むことを通じて、仏の教えを深く理解し、また仏への信仰も深まる。その状態を「深信解の相」という。

法華経を受持し読誦することは、塔寺を建て僧房を作ることに劣らない、あるいはそれを超える功徳がある。「如来の滅後に、若し受持し読誦し、他人のために説き、若しくは自らも書き、若しくは人をして書かしめ、経典を供養することあらば、復塔寺を起て及び僧房を造り衆生を供養することなかれ」。そんなことをせずとも、法華経に帰依することで、我々衆生には成仏が約束されているというのである。

短い文章ながら、法華経を信仰するうえでの基本的な心掛けが記されている。こうした心掛けについて、仏教者たちは、「四信五品」とか、「在世の四信・末後の五品」とか称して、経文を引用しながら解説している。「在世の四信」とは、釈迦仏が在世中に説かれた教えをいうもので、先述の一念信解のほか、略解言趣、広為他説、深信観成である。段階を追って信仰は深まり、深信観成の段階にいたって信仰が完成するとされる。

「在世の五品」は、初随喜、読誦、説法、兼行六度、正行六度であり、これも後へ行くほど段階的に深まっていくとされる。兼行六度とは、布施以下の六波羅蜜を実践することであり、正行六度とは、その六波羅蜜をいついかなる場合にも実践することができる状態を意味している。



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