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法華経を読むその十四:安楽行品


「安楽行品」第十四は、直前の「勧持品」とは一体の関係にある。「勧持品」では、授記された弟子たちが、菩薩として生きる決意を語るのであるが、「安楽行品」は釈迦仏が、菩薩としてのあり方を説諭するのである。どちらも、菩薩がもっとも依拠すべきは法華経だと説いている。「勧持品」は、菩薩の立場から法華経への忠誠を誓い、「安楽行品」は、釈迦仏の立場から法華経への勧めのようなものが説かれる。

安楽行とは、安らかな気持ちで、自ら楽(ねが)うところの修行という意味だ。安楽という言葉からは、安らかな愉楽というようなニュアンスが聞えて来るが、そうではなく、あくまでもみずから主体的に行うという意味合いが強い。法華経の教えによりながら、自ら主体的に菩薩としての修業を行なうというのが、このお経の意図である。

お経は、文殊菩薩の問いに釈迦仏が答えるという形をとる。文殊菩薩は、悪世において法華経を説くためにはどのような心掛けが必要かと問う。それに対して釈迦仏は、四法に安住すべしと答える。四法とは、四つの安楽行をいう。つまり、菩薩の修業には、四つのタイプの修業があるというのである。その四つのタイプは、お経そのものは直接言及していないが、一般に、身安楽行、口安楽行、意安楽行、誓願安楽行と呼ばれるものに区分けされている。この四種の安楽行について、釈迦仏は順を追って説いていくのである。

第一に、身安楽行。これには、行所と親近所とがある。行所とは、自分の身の振舞い、行為についての心掛けである。忍辱の地に住し、柔和善順にして卒暴ならず、諸法は如実の相なりと感ずること、それが行所である。諸法如実の相を感ずとは、一切は空であるとさとることである。親近所とは、修業の妨げになるものや人から遠ざかることである。権力者たち、外道のものたち、邪法を説く者たちに近づいてはならない。また、女人も避けるべきである。もし避けがたい時には、一人で対してはならない。かならず他の者と同行すべきである。同行すべきものが見当たらない時には、仏に同行を求めるべきである。仏はつねに、仏に帰依するものに寄り添ってくれるからである。

面白いのは、五種の不男の人と懇ろになるなと説いていることだ。不男とは男根が不具のものをいい、それに五種類があるという。男根を切り取られたものとか、男女両性具有のものなどである。法華経がなぜ、こうした人々を忌避したか、文化史的に面白い課題だ。

第二は、口安楽行。これは言葉遣いをめぐるいましめである。「若しくは口に演説し、若しくは経を読まん時には、楽(ねが)って人及び経典の過を説かざれ」といい、人をおだてたり、逆に人を嫌がってりしてはならない。また、人の言うことに逆らってもいけないと説く。

第三は、意安楽行。これは心の持ちようについて説いたものである。「嫉妬・諂誑の心を懐くことなかれ、亦仏道を学ぶ者を軽罵し、其の長短を求むることなかれ」といい、「諸法を戲論して諍い競う所あるべからず。当に一切衆生に於て、大悲の想を起し、諸の如来に於て、慈父の想を起し,諸の菩薩に於て、大師の想を起すべし」と説く。これらのことに心掛ければ、悩乱することはなくなる。

第四は、誓願安楽行。これは、仏滅後の末世においても、法華経を受持せんとする決意である。そういう人は、在家・出家の人においては大慈の心を生じ、菩薩にあらざる人においては大悲の心を生じるであろう。誓願とは、末世においても法華経を受持し、自分だけが助かるのではなく、他者も助けようとする、大乗の精神を保とうとする誓いのことをいう。「如来の滅後において、この第四の法を成就することあらん者は、この法を説く時、過失あることなからん」

以上、四つの安楽行について説いた後に、髻珠のたとえが語られる。いわゆる法華経七喩のうちの六番目のたとえである。これは法華経を髻中の珠にたとえたもので、髻中の珠が大事なもののなかで最も大事であると同様、法華経は数ある経典の中でも最も大事なものであると説くものだ。

以上を踏まえ、仏の滅後に法華経を説かんとする者は、かくのごとき四法、すなわち四つの安楽行に親近すべしと説かれる。そしてその法華経の功徳が改めて強調される。偈にいわく、
  是の経を読まん者は 常に憂悩なく
  又病痛もなく 顔色は鮮白にして
  貧窮 卑賎・醜陋に生れざらん
  衆生は見んと楽うこと 賢聖を慕うが如くにして
  天の諸の童子は 以て給使を為さん
  刀杖も加えられず 毒も害すること能わず
  若し人、悪み罵らば 口則ち閉塞せん
  遊行するに畏れなきこと 師子王の如く
  智慧の光明は 日の照すが如くならん
 
また、法華経を護持する人は、夢の中でもすばらしいものばかり見るであろう、と説かれる。諸の如来が、大勢の比丘たちに囲まれて説法する姿とか、無量の光を放って一切を照らす姿とか、四衆が合掌しながら仏の説法に聞き入る姿などである。また、夢を見る人自身も、山林の中にあって、諸の実相をさとり、深く禅定に入って、十方の仏を見ることであろう。



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