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法華経を読むその七:化城喩品


「化城喩品」第七は、「五百弟子授記品」へのつなぎの役を果たす章である。釈迦仏は、五人の高弟に授記した後、大勢の人々を次々と授記していく。授記とは、成仏を約束することだが、人はなぜ成仏できるようになるのか、その因縁を語るのがこの「化城喩品」なのである。つまりこの「化城喩品」は、仏になるための条件と、実際に仏に成った人たちの行いについて語るのである。例によって譬喩を通じて語られる。「化城宝処の譬え」である。

釈迦仏は大勢の比丘たちに向って、無限の過去に存在していた大通知勝如来について語る。その如来がどのような因縁によって如来となり、またその子どもたちやほかの人々をさとりに向って導いたかを説くのである。この大通知勝如来は、すべての如来の原型となるもので、釈迦仏自身、大通知勝如来の十六人の王子たちの一人なのである。その釈迦仏は、大通知勝如来と全く同じ修業をし、全く同じ教えを説く。すべての如来は、そのようにして、衆生を救うのである。

大通知勝如来の仏国土を好城といい、その時代を大相といった。その滅後いままでの間に無限の時間が過ぎている。その時間の単位を劫というが、一劫自体が無限に長い時間であり、しかもそれを無限の数重ねた気の遠くなるような長さの時間が大通知勝如来の滅後に過ぎているというのである。それだけ長い時間の過去のことであるが、釈迦仏にとっては、今日のことのようにありありと思えるという。「如来の無礙知は、彼の仏の滅度と、及び声聞・菩薩とを知りたまえること、今の滅度を見るが如し。諸の比丘よ、当に知るべし、仏知は浄く微妙にして、漏なく礙ゆる所なければ、無量劫を通達するなり」。仏の知恵は時間を超越しているということであろう。

経文はまず、この大通知勝如来がどのようにして悟りを得て如来となったかについて説く。それは簡単なことではなかった。十小劫の間結跏趺坐して修業をしても悟りを得ることができなかった。そこで諸天の梵天王たちが協力して、獅子座を作り天華を降り注いでくれた。そのようにして更に十小劫修業をすると、ついに阿耨多羅三藐三菩提を得て、悟りを開くことができたのである。

先程触れたとおり、大通知勝如来には十六人の王子たちがあった。その王子たちは、自分たちもまた悟りを得たいと願い、父の教えを聞きに集まってきた。如来の父親転輪聖王も大勢の家来たちをつれてやってきた。

如来が悟りを得た時、世界は振動し、光明につつまれた。それを見た諸天の梵天王たちは、これは如来が現われたしるしであると理解し、如来のもとに次々とやってきて、説法を垂れるように懇願した。その中には、次のように言う者もあった。「唯、願わくは世尊よ、法輪を転じて、一切世間の諸の天・魔・梵・沙門、婆羅門をして、皆、安穏なることを獲、しかも度脱することを得せしめたまえ」。つまり悪魔や外道のものまで救って欲しいというのである。悪魔や外道のものまで救われるべきだというのは、仏教の寛容さをあらわすものだ。

また、次のように言う者もあった。「我らの諸の宮殿は、光を蒙るが故に厳に飾られたり。今、もって世尊に奉る 唯、哀れみを垂れて納受したまえ。願わくはこの功徳をもって、善く一切に及ぼし われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん」。「願わくは」以下の部分は、一切衆生がともに成仏することを願うというもので、大乗仏教の精神をよくあらわす言葉として、宗派を超えて、廻向文として唱えられている。

集まってきた大勢の人たちに懇願されて、大通知勝如来は愈々悟りに向けての教えを説く。それが「四諦」と「十二因縁」の説である。どちらも煩悩とそれを取り除くことについて説いた教えである。

「四諦」については次のように説かれる。「これ苦なり、これ苦の集なり、これ苦の滅なり、これ苦の滅の道なり」と。「これ苦なり」とは、人生は苦であるということをあらわす。仏教は、生きることは苦であるという受け止め方から始まるのである。その苦を具体的にいうと、四苦八苦となる。四苦は生老病死のことであり、八区はこれに怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五蘊盛苦を加えたものである。いずれも生きることから生まれる苦悩をさしている。

「これ苦の集なり」とは、苦の原因を述べたものである。苦の原因は煩悩にある。その煩悩が集まって人を苦しめるのである。「これ苦の滅」なりとは、苦の原因たる煩悩を滅することである。そのことによって、悟りを得て涅槃の境地に達することができる。「苦の滅の道なり」とは、煩悩を滅するための方策について述べたものである。その方策には八つの正しい道がある。すなわち、①正しい見解、②正しい意志、③正しい言葉、④正しい行い、⑤正しい生活、⑥正しい努力、⑦正しい思い、⑧正しい心である。これらを実践することで、煩悩を滅し涅槃の境地に至る道が開ける。

「十二因縁」については、次のように説かれる。「無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名色は六入に縁たり、六入は蝕に縁たり、蝕は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老・死・憂・悲・苦・悩に縁たり」と。これもまた、生きることは苦であるということを別の言葉で述べたものであるが、「四諦」の考え方よりも多少複雑になっている。どちらも因果関係にしたがって人間の苦悩の原因とそれを取り除く方策を示しているわけである。

経文はついで、「化城宝処の譬え」を述べる。これも仏が衆生を教えるに方便をもってするという「方便品」の思想の具体化されたものである。方便品の思想は、仏の教えの本質は一仏乗といって、あらゆる人に当てはまる普遍的なものだが、教える相手によって理解能力に差があるので、その差に応じて、相手の理解しやすいように話し、それを重ねることで、最終的には本来の教えに導くというものだった。「化城宝処の譬え」では、「宝所」を一仏乗とし、「化城」を方便として、方便を通じて一仏乗にいたる道を示している。

具体的な内容な次のようなものである。大変長い道のりをゆく人々があった。人々はその道の長さに尻込みして、引き返そうと思った。すると導者は一つの城をこしらえて見せ、人びとに言った。まずこの城で休んでください。そこで英気を養えば体力も回復します。めざすゴールである宝処はすぐ近くにありますから、たやすく到達することができます。そう言われた人々は化城で休息し、体力が回復したあと宝処に達することができた。この話のなかで、宝所は一仏乗の教え、化城は方便としての三仏乘の教えをあらわすのである。三仏乗とは、声聞、独覚、菩薩それぞれに対応したという意味である。

以上、この章で説かれているのは、どんな人でも仏になる素質をそなえているということである。なぜそうなのか。それは、どんな人にも仏性が生まれながらに備わっているからだと法華経は教える。人は孤絶した現世限りの存在ではなく、様々な因果の結節点としての存在である。その因果は、最終的には成仏に向けて組み合わされている。法華経はそのように説くのである。


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