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法華経を読むその五:薬草喩品


法華経「草喩品」第五は、「譬喩品」、「信解品」との一連の流れの中で位置付けられる。「譬喩品」では、仏による衆生の救済が仏の立場から説かれ、「信解品」では仏によって救済される衆生の喜びが、修行者の立場から語られた。「薬草喩品」は、そうした仏による救済を、再び仏の立場から説いたものである。それは、例によって譬喩を通じて行われる。薬草の譬えがそれである。大雲が降らす雨は、大地の植物を一様に潤すが、それを受ける植物は、それぞれのあり方に応じてそれを受け止める。仏と衆生との関係もそれと同じことである。仏の教えの本質は一相一味といって、すべてのものに平等に与えられるのだが、衆生にはそれぞれ能力の相違があるので、その能力に応じて受け取るのであり、仏も又そうした能力に応じた方便を用いて教えを説く、というのが薬草喩品の基本的な内容である。

場面設定は、「信解品」の続きである。「信解品」で釈迦仏と向かい合った四人の弟子のうち、ここでは摩訶迦葉が一同を代表して釈迦仏の相手をする。摩訶迦葉が仏の教えのすばらしさをたたえると、釈迦仏は次のように言う。「迦葉よ、 当に知るべし、如来は、これ諸法の王なれば、若し説く所有らば、皆、虚しからざるなり。 一切の法において、智の方便をもってこれを演説し、その説く所の法は、皆、悉く一切智地に到らしむ。 如来は、一切諸法の帰趣する所を観知し、 亦、一切衆生の深心の 所行を知りて、 通達し無礙なり。また諸法を究尽し 明了にし、 諸の衆生に、一切の智慧を示す」

諸法の王とか、一切諸法という言葉があるが、諸法とは存在するもののこと、一切諸法とはあらゆる存在者という意味である。仏は存在者の王として、あらゆる存在者のことを深く理解し、これらを導くべく、一切の知恵を示すというのである。こう言うことで、仏即ち自分を信解せよと言っているわけである。

経文ではこの後、薬草の譬えが説かれる。その譬えは、薬草にことよせて語られるのだが、同じ内容が、仏による偈の部分では、三草二木の譬えとして語られる。具体的な内容は、もう少し後で取り上げる。

釈迦仏はついで、仏の本質的なあり方について説く。そのことを通じて、衆生に信解を深めるように促すのだ。曰く、「われは、これ如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊なれば、未だ度らざる者をば、度らしめ、未だ解らざる者をば、解らしめ、未だ安んぜざる者をば、安んぜしめ、未だ涅槃せざる者には涅槃を得せしむ。今世・後世を如実に、これを知るをもって、われはこれ一切を知る者・一切を見る者・道を知る者・道を開く者・道を説く者なり。汝等、天・人・ 阿修羅衆よ、皆、応にここに到るべし。法を聴かしめんがための故なり」

仏は自己を一切智者、一切見者といい、知道者、開道者、説道者であると言う。智道とは意をもって道を知り、開道とは身をもって道を開き、説道とは口をもって道を説くことである。身口意は三業といい、人間の行いを言いあらわしたものである。要するに能力の総てを上げて、衆生を救済するという意味である。

ついで、如来の教えが一相一味である所以が説かれる。「如来の説法は一相一味なり。所謂解脱相・離相・滅相なり。究竟して一切種智に至る」。如来の教えは一相一味だが、教え方には順序がある。解脱相・離相・滅相がそれである。解脱相とは生死の迷いから離れること、離相とは他者の苦しみを和らげること、滅相とは自己と他者の区別を滅却すること。この三つは段階的に高まっていくとされる。解脱相は小乗の境地であり、離相は大乗の低い境地であり、滅相は円熟した菩薩の境地である。釈迦仏は、この三つを方便として用いることで、相手の能力応じて教えつつ、しかも究極的な段階へ向かって次第に導いていくのである。

以上の内容が、偈の部分で繰り返されるのであるが、上述したように、本文の薬草の譬えは、偈の部分では三草二木の譬えとなり、いっそう詳しく説かれる。だが内容は同じである。大雲が地上のあらゆる植物に雨を降り注ぐように、仏は一切の衆生に教えを与える。しかして草木がそれぞれの流儀で雨を受け取るように、衆生はそれぞれの能力に応じて仏の教えを受け取る。仏はそのことを十分考慮に入れて、方便をもって衆生を教え導くといった内容である。

この譬喩を踏まえて仏は言う。
  我は為れ如来 両足の尊なり
  世間に出ずること 猶大雲の如し
  一切の 枯槁の衆生を充潤して
  皆苦を離れて 安穏の楽
  世間の楽 及び涅槃の楽を得せしむ
両足の尊とは、智慧と徳との両方を兼ね備えた完全無欠なものという意味。どちらか一方だけでは、いけない。両方を兼ね備えることで完全な存在となり、大雨が草木を潤すように、衆生を潤し、苦を逃れさせ、そのことで安穏の楽、世間の楽、涅槃の楽をもたらす。安穏の楽とは、世間のわずらわしさから離れて心が平安になることをいい、世間の楽とは、世間のわずらわしさの中にあって、なお心の平安を失わないことであり、涅槃の楽とは、仏になることで得られる境地である。

偈の部分は次の言葉で終わる。
  今汝等が為に 最も実なる事を説かん
  諸の声聞衆は 皆、滅度せるに非ず
  汝等の行ずる所は 是れ菩薩道なり
  漸漸に修学して 悉く当に成仏すべし
鳩摩羅什訳の法華経薬草喩品はここで終わっているのだが、サンスクリット語原文では、続きがある。その続きの部分では、もう一つ別の比喩が語られる。盲人の譬えである。生まれながらの盲人が、目が見えるようになり、更に世間の欲望を捨てて超自然的な能力を得るようになったという話である。つまりサンスクリット語原典では、この章は二つの比喩から構成されていたのであるが、鳩摩羅什はそれを一つに絞ることで、わかりやすくしようとしたのであろう。



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