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永遠のいのち:仏教の思想⑫


「仏教の思想」シリーズ最終巻(第十二巻)は、「永遠のいのち」と題して日蓮を取り上げる。担当は、仏教学者の紀野一義と哲学研究者の梅原猛である。このシリーズでは、仏教学者が当該テーマについて、思想を体系的に語り、哲学研究者が多少文学的に、仏教者の人間像について語るという役割分担であったが、この最終巻においては、紀野が日蓮の人間像を余すところなく語りつくしたので、梅原のほうが日蓮の思想を語るというはめになったという。

紀野は、曽祖父が幕末の頃に池上本門寺の貫主をつとめていた縁もあり、日蓮には特別の思い入れがあるようだ。紀野は自身を日蓮の専門家とは考えておらず、仏教を広い見地から研究しており、法然も親鸞も、栄西も道元も好きだと言うのだが、日蓮はそのいずれをも激しく攻撃しているので、自分としてはどうしたらよいか困ってしまうと言っている。それでも日蓮にはもっとも魅かれているようで、日蓮を語る紀野の言葉は実に感情移入的である。

日蓮にはたしかに人を惹きつけるものがあるようだ。それは思想もさることながら、その人柄によるのだろう。日蓮の生涯は、法難といわれる迫害の連続だった。その迫害は、命の危険を感じさせるほど激しいものであったが、日蓮はそれをものともせず、自分の主張を貫きとおした。そうした強い人間性が人を強く惹きつけるのだろう。日蓮にはまた、神経の細やかなところがあって、弟子たちにはかゆいところに手の届くような気配りをしてもいる。そんな日蓮の複雑な人間性にも、人を惹きつけるところがあるのだと思う。

宗教思想家としての日蓮の出発を画するものは「立正安国論」を公表したことである。これがきっかけとなって日蓮の一連の法難が始まりもした。この著作は、執権職を引退していた北条時頼にあてたものだ。現役の執権ではなく、引退していた時頼にあてたのには、わけがあるという。日蓮は、時頼なら自分の主張を理解してくれるだろうと期待したというのである。だが、これは無視された。無視はされたが、内容は広く流布したらしい。その内容が日蓮に禍して、激しい迫害を招くのである。

「立正安国論」に盛られた内容で重要なのは、念仏の排除と外国からの侵略を憂えたことである。日蓮はこの書物を書いた時点で法華経の行者たる自覚を持っていた。その法華経を布教するにあたって最大の障害となったのが念仏であった。法然の念仏信仰は、法華経をないがしろにして阿弥陀信仰を説いている。それは本末転倒した考えであって、信仰を正しい道に戻すには、法華経に帰り法然の念仏を廃除しなければならない。そうした主張が念仏衆の怒りを買って、激しい迫害へとつながったのである。

もう一つの重要な内容としての外国の侵略ということについては、蒙古からの脅威というかたちで現実化した。この元寇問題について日蓮は、そうした危機をもたらしたのは法華経を軽んじたためであって、法華経を盛んにすることによって、乗り越えることが出来ると主張した。

ともあれ、念仏衆の強い怒りが、日蓮に激しい迫害をもたらしたと紀野は言うのである。その迫害の原因となった「立正安国論」について、紀野はそのほぼ全文を現代語訳して載せている。それを読むと、日蓮の主張の過激さが伝わってくるのである。

日蓮の法難は、鎌倉松葉が谷草庵焼き打ちに始まり、伊豆への流罪、小松原の法難、辰の口の法難、佐渡流罪と続く。それぞれの法難事件においては、日蓮は絶対絶命の危機に陥ったのだったが、どういうわけかその危機を乗り越えて生き延びた。小松原の法難では、日蓮の守護者であった武士の工藤氏が討ち死にしたほどなのに、日蓮自身は逃げ延びることができた。辰の口の法難では、斬首が決まっており、いままさに首を切られようとする段に至って命を永らえている。日蓮の法難にはそうした不可思議がつきまとっているのである。

度重なる法難にかかわらず、日蓮がくじけなかったのは、自分の使命に深い責任を感じていたためである。その責任を日蓮は「法華経」の言葉を引用して、「われ身命を惜しまず、ただ無上道を惜しむ」と言っている。自分の命をなげうってでも、法華経行者としての使命を果たしたいと言うのである。

その法華経行者としての使命を果たすことに、日蓮は自分の一生を捧げたわけである。そんな日蓮の生き方というか、人間性を紀野は、「鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねどもなみだひまなし」という日蓮自身の言葉で言い表している。これは、佐渡流罪中一の谷でしたためた「諸法実相抄」の中の言葉だが、日蓮の激しい情熱が伝わってくる言葉である。

佐渡へ流される途中、越後の寺泊で沈思黙考した日蓮は、自分を法華経のキャラクターである常不軽菩薩にたとえている。常不軽菩薩は、自分を無にして他人のために祈りを捧げる。そのように自分も、衆生救済のために自分自身を捧げようというのである。若い頃の日蓮は、他宗に対して不寛容で攻撃的であったが、晩年に至って人格に円満さが加わり、菩薩の風格が出てきたのである。そんな日蓮を、宗門の人々は菩薩に大をつけて、日蓮大菩薩と呼んでいる。

日蓮の思想のうち最も重要な要素として紀野は、「即身成仏」をあげている。「即身成仏」の思想は、天台宗からヒントを得たものだが、日蓮はそれを独自なものにした。即身成仏を「人間の努力によって現成するものではなく、永遠なるものの力によって現成するもの」と考える点では、天台宗も日蓮も同じだが、天台宗が、その永遠なるものの力が、円頓大戒を受戒したときに現成すると考えるのに対して、日蓮は「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで現成すると考える。日蓮にとって、「南無妙法蓮華経」を称えることは、永遠のいのちに働きかけることであり、それを通じて、現世に生きながら成仏できると考えるのである。そういう点、日蓮の思想は非常に現世的であって、あの世へのあこがれを中核とする念仏とは大きく異なっている。そうした日蓮の現世中心的な思想が、日本の庶民の感覚にマッチしたということはあると思う。日蓮の思想は、京都の町衆など町民の間に普及したが、それは日蓮の現世中心主義が町民の現実主義と共鳴したからではないか。



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