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法然と親鸞


仏教の思想シリーズ第十巻「絶望と歓喜」における著者対談のテーマは法然と親鸞の比較である。この二人の関係についての著者たちの見方は、増谷は連続性を重視し、梅原は断絶を重視したと言ったが、ここでは両者の比較が中心となるので、おのずから差異が意識的に論じられる。その差異を通じて、浄土宗と浄土真宗の相違も浮かび上がってくるようになっている。

ここでまず、浄土真宗の歴史が確認される。増谷によれば、真宗教団というのは長い間蓮如の教団だったという。親鸞自身は、自分が真宗の開祖だという意識はもたなかったし、親鸞が生きている間は、その勢力は微々たるものだった。真宗を教団として飛躍させたのは蓮如であり、教団内で読まれていたのは主として蓮如の「御文章」だったという。蓮如の思想は源信の浄土思想に近いもので、したがって法然の浄土宗にも近かった。それを今日のような、親鸞の教えを中心とするものに変ったのは明治三十年代以降のことで、清沢満之の果たした役割が大きかった。清沢がいなければ、いまの真宗というものはなかったと増谷は言っている。

親鸞は九十歳まで生き、八十歳半ばまで旺盛な執筆活動をした。親鸞らしい思想は晩年にいたってよくあらわれており、そういう点では親鸞はスロースターターだったと増谷は言う。若し親鸞が七十歳くらいで死んでいたら、親鸞は大思想家にならなかっただろう。法然が二十歳代にして宗教者としての名声を確立し、五十三歳で「選択集」を書き上げたのと比べれば、大きな相違である。しかも親鸞は、生きている間は大した名声はなく、せいぜい田舎仏教者としか見られていなかった。死んだ後でも、蓮如が真宗教団の教祖に祭り上げるまでは、ほとんど無名にとどまったと言ってよい。そこは生前にすでに浄土宗の基礎を確立した法然とは異なるところだ。梅原も、「親鸞は生きているあいだは、法然や日蓮のようなスターではなかった」と言って、同意している。

以上は、法然と親鸞の外面的な比較だが、内面的にはどのような相違があるか。まず、気質の相違。法然は非常に論理的な思考をし、理知的な印象が強いが、親鸞は論理的な思考が苦手で、感性的な傾向が強い、と梅原は言う。「選択集」の文章は非常に論理的で説得力があるが、「教行信証」の文章は、漢文もおかしいし、経典の読み方も間違っているのじゃないかと指摘している。それでいて妙な説得力があるのは、宗教的な情熱のせいだろうというわけである。

そこで両者の宗教上の教えの内容が問題になる。両者とも他力を前面に押し出したが、その他力の受け取り方に微妙な相違がある。法然の場合には、自分の頭で考え抜いたあげくに他力に至りついた。一方親鸞は、他力の教えを他力のまま受領した。そこには頭で考えた理屈は介在しない。強い信仰によってストレートに他力になっている。仏教には、信心為本・念仏為本という言葉があるが、法然が念仏為本、親鸞は信心為本の立場に立っている。法然は、念仏さえすればおのずから信の境地に入れると教えたが、親鸞は信がまず先だと主張したわけである。

往生についても相違がある。法然は、念仏すれば死後浄土に往生できると説いた。親鸞は、死後のことをあまり重視しない。生きながらにして信仰の境地に入ることがすなわち往生だと言っている。つまり法然は死後往生を説いたのに対して、親鸞は生きながらの信楽を説いた。信楽とは、信じることの楽しさという意味である。信じることがすでに往生だと言うのである。

浄土系のお経として浄土三部経がある。そのうち法然は「観無量寿経」を重視した。観無量寿経は源信以降法然までの浄土思想がもっとも重視してきたものだ。その点で、法然は伝統の上に立っている。それに対して親鸞は「無量寿経」を重視した。というか、「無量寿経」だけと言ってよい。無量寿経の教えは、仏の願を説くことにあるが、親鸞はその中の第十八願に依拠しながら、他力信仰の教えを説いたのだった。親鸞のその信仰は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という言葉に集約されている。

ついで、法然・親鸞それぞれの命名の由来が触れられる。法然という名は、叡空からもらった。「法爾自然」という言葉からとったもので、「法爾」はあるがまま、「自然」はおのずから、という意味である。そうなるべくしていまに至った人物、というような意味合いの名だ。一方親鸞は、自分で名乗った。親は世親から、鸞は曇鸞からとった。曇鸞は中国浄土教の開祖のような人物である。法然が善導を重視したのに対して、親鸞が曇鸞を重視したのは、曇鸞が阿弥陀を光にたとえたことが親鸞の気にいったのだろうと増谷は推測している。親鸞といえば感性的な傾向が強く、抽象的ではなく具象的なものを重んじる印象があるが、こと阿弥陀のイメージについては抽象的に捉えていたと言うのである。

先ほど、死後浄土、生きながらの信楽ということを言ったが、それの延長として、死の宗教、生の宗教というものへの言及がある。法然までは死の宗教が優位だったが、親鸞以降は生の宗教が盛んになる。日蓮がそうだし、また禅宗も生を重んじる。密教などは、本来死の宗教だったはずが、即身成仏などといって生を重んじるようになる。これは時代の影響だろうと増谷らは言っている。とりわけ明治以降は生の文明が旺盛となって、それが宗教にも反映した結果、近代の新興宗教はほとんど生の宗教たる日蓮宗から派生したと言う。



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