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絶望と歓喜<親鸞>:仏教の思想⑩


「仏教の思想」シリーズ第十巻は、「絶望と歓喜<親鸞>」と題して、親鸞を取り上げている。担当は、このシリーズの第一巻を担当した増谷文雄と梅原猛のコンビ。梅原はこのシリーズのコーディネーターだが、仏教では浄土系、仏教者では親鸞をとくに畏敬しているらしく、かれとしてはとりわけ気合が入っている。

増谷、梅原ともに、親鸞の生涯とその思想について語っている。親鸞の場合には、その生き方がかれの思想を深化させたというところが指摘できるので、その生涯を語らないでは思想の深みを本当に理解できないということらしい。その生涯を彼らは、この本のタイトルにもあるとおり、「絶望と歓喜」に織り成されたものと考えている。親鸞には、人生に幾つかの段階が指摘できるが、一つの段階から次の段階に移るについては、かならず絶望があり、それを乗り越えることによる歓喜があったと言うのである。絶望とは、この世に対する絶望であり、歓喜とは浄土への喜びである。浄土教にはもともと、末法思想にもとづくこの世への絶望と、浄土への憧れがあったわけだが、親鸞はそうした思想を深化させたのであった。

二人とも、中國浄土をも視野に入れて、親鸞を浄土教の流れの中に位置づけている。なかでも法然との関係にとくに注目している。親鸞と法然との間には、四十歳もの年齢差があり、親鸞が法然に直接師事したのは、法然の晩年だった。晩年の法然は専修念仏の思想を確立しており、親鸞はその専修念仏から始めたわけであるが、この両者の関係は一筋縄ではいかない複雑さがあるようだ。その関係を、増谷の方は連続の相を重視して考えるのに対して、梅原のほうは断続の相を重視している。増谷は、親鸞が自分を浄土真宗の開祖として自覚しておらず、あくまでも法然の思想を広めただけだと言っていることを根拠に、子弟の連続性を主張するわけだが、梅原のほうは、親鸞がもっぱら大無量寿経によりながら、他力本願を説いたことを根拠にして、観無量寿経によりながら浄土の荘厳を説いた点で伝統的な浄土教とのつながりを強く感じさせる法然とは、断絶があると主張するのである。

そこでまず、増谷のほうを取り上げる(第一部「親鸞の思想」)。増谷は、親鸞の生涯を四つの節目によって区分し、晩年になるほど思想の深化が見られるとする。親鸞は実に九十歳まで長生きしたのだが、宗教家としてもっとも多産だったのは70歳代後半から八十歳代半ばのことで、かりに七十歳ぐらいで死んでいたら、今日我々の前にある親鸞の像はなかっただろうと言っている。その点では師匠の法然とは大きな相違だ。法然は二十台半ばにして智慧第一と讃えられたが、親鸞は三十歳近くになってもまだ暗中模索の段階にとどまっていた。その点親鸞は非常なスロースターターだったと言うのである。

念のために四つの節目について触れると、第一は二十九歳で比叡山を下りて法然を訪れたこと、第二は法然の法難に巻き込まれて越後に流され、愚禿親鸞と名乗った三十五歳の頃、第三は妻子を伴って関東入りし、宗教者としての行動を始めた四十三歳ころのこと、第四は京都にもどって隠棲生活に入った六十三歳頃のこと。このうち宗教者としての親鸞の活動は関東時代に最も活発だが、宗教思想家としての活動は晩年が最も充実している。さきほども触れたように、親鸞の主要な執筆活動は、最晩年の八十歳以降に頂点を迎えるのである。

親鸞の執筆活動といえば、「教行信証」が主著とされるのが普通であるが、増谷はそれよりも、晩年の著作、とくに和賛集とか書簡集を重視する。「教行信証」は、親鸞自身の言葉は少なく、仏典以下の教義についての引用と、それについての親鸞の短い感想が中心で、体系的な思想の書とはとうてい言えない。それに対して和賛集や書簡は、これも体系的とは言えないが、親鸞自信の思想を語っているという点で、親鸞理解にとって重要だと増谷は考えるのである。増谷によれば、八十歳を超えた親鸞こそは、アクメーの盛りなのであり、最も充実した時期なのである。

そこで親鸞自身の思想はどのようなものだったか、それが問題となる。親鸞の思想の核心は、専修念仏あるいは本願念仏と言われるものである。親鸞は口称念仏重視の思想を法然から受け継いだ。口称念仏とは、口で「なむあみだぶつ」と称えることである。法然以前には、念仏とは、基本的には仏あるいは仏のいる浄土を心に思い浮かべることであった。それを法然は、「なみあみだぶつ」と称えれば往生できると説いた。そう説くことで、凡夫を含めたあらゆる者が成仏できるという希望を与えた。親鸞はその念仏の教えを法然から受け継ぎ、それを更に発展させたというのが増谷の基本的な見立てである。増谷はこの子弟の間には、深化発展という関係は認められても、断絶はないというふうに見立てるわけである。

親鸞はまた、法然の他力本願の思想を深化させた。親鸞といえば「悪人正機説」が有名だが、「悪人正機説」というのは他力本願の思想を究極的に深めたものである。その他力本願と並んで、信心の重視が親鸞の大きな特徴である。信心というのは、信仰とも言い換えられるが、要するに仏への主体的な帰依をいう。浄土教には、信心と念仏という二つの柱があり、法然はそのうち念仏を重視したが、親鸞は信心を重視した。法然は、念仏をすれば死後に浄土に生まれかわれると説いたわけだが、親鸞は信心が深ければ、生きたままに浄土に遊ぶことができる、と説いたのだった。その考えをあらわしたものとして、次の 言葉が重要である。「来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生もさだまるなり。来迎の儀式をまたず」。信心が深ければ、生きたまま往生できるというのである。それを親鸞は信楽(しんごう)という言葉で言い表した。信心を楽しむという意味である。信心すること自体が楽しいのである。

以上は、親鸞の思想の内容的な特徴だが、その思想を表現する仕方も独特だと増谷は言う。これは梅原も指摘しているところだが、親鸞の文章には非論理的なところが目に付く。現代の論理的な思考とは違った思考が働いているというのである。たとえば親鸞の有名な言葉に「義なきを義とす」というのがある。あるいは「無義をもて義とす」ともいう。これは、形式論理に反した言い方である。義とは義がないこと、つまり義の否定だと言っているわけで、これは同一のものがAかつ非Aではありえないという、論理学の基本的な前提に反する言い方である。ということは、親鸞の思考は、現代人の論理とは全く異なった世界のものだということになる。

だが、宗教とは論理で割り切れるものではない、というのは西洋の思想家でも言っていることだ、パスカルは、論理の終わるところから信仰が始まると言っているが、要するに宗教とか信仰とかは、論理では割り切れないということだ。その、ある意味当たり前のことを、親鸞はわざわざ気づかせるべく、このような言い方をしたのだと思われる。師の法然には論理を重んじるところがあって、そのあまりに、論理にこだわると宗教が成り立たないとも気づいていた。法然が念仏を言って信心をあまり言わないのは、考えすぎることの危険性を覚っていたからだろうと思われる。親鸞はしかし、論理と信心とは違うことを自覚しながら、なおも信心の大切さにこだわったのだろうと思う。



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