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空海と最澄


空海と最澄は同時代人であり、それぞれ真言・天台という平安仏教の創始者ということもあって、よく対比される。しかも二人はともに遣唐使に同行して唐に留学し、密教を学んでいる。宗教的にも似たところがある。最澄のほうが七歳年長ということもあり、この二人を対比するときには最澄と空海という具合に最澄を前に置くのが普通だが、ここでは空海の真言密教をテーマにしているので、空海を前に置いた次第だ。

唐に渡った時、最澄は三十八歳、空海は三十一歳だった。その時点で最澄は高名な宗教者としての名声を確立していたのに対して、空海は全く無名であった。最澄は通訳付きで一年間の留学を命じられ、空海は通訳なしで二十年間の留学を命じられた。だが空海は二年で留学を打ち切り、日本に戻った。密教を十分に吸収し、これ以上学ぶものはないとの自信を得たからだと言われる。

日本に戻った空海は依然として無名であったが、かれの名を天下にとどろかす事態が起こった。京都高尾山を根拠としていた空海のもとに最澄が訪れ、空海によって灌頂を受けたのである。灌頂を受けたということは、弟子として師の教えを請うということである。つまり当時高僧として名を天下に知られていた最澄が、無名の空海に弟子入りしたということになる。そのことで、空海の名は一躍天下に知れ渡った。以後空海は、朝廷にも厚くもてなされ、順調な布教活動をすることができるようになった。

最澄はなぜ、空海に膝を屈したのか。日本の宗教史上の大事件ともいうべきこのことについては、さまざまな憶測がなされてきた。梅原猛もかれなりの憶測をしている。梅原は、根拠を示さずに勝手な憶測をする癖があり、かれの説には眉唾物が多いのだが、空海をめぐる憶測には興味をそそられるものがある。どうやら最澄には同性愛の傾向があって、それがかれをして空海に膝を屈せしめたと言いたいようなのである。

最澄には、泰範という弟子がいた。自分の後継者と目していた人で、なみなみならず眼をかけていた。ところがその愛弟子が突然自分のもとを去ってしまった。理由は、同僚たちの嫉妬がわずらわしかったということらしい。そんなことは知らない最澄は、たびたび泰範に手紙を書いて、是非戻ってくるようにと訴える。その最澄の言葉には、異様なものがある。そこで、その言葉の端々からは最澄の泰範への同性愛を感じ取れると梅原はほのめかすのである。最澄が空海のもとで灌頂を受けるのは、泰範が去ったその年のうちであるが、それは灌頂自体が目的ではなく、その場で泰範と会う機会を作るためであった。泰範は密教に深い関心を抱いており、後に空海の弟子になるくらいであるから、空海のもとで共に灌頂を受けようと誘えば、乗ってくるだろうと最澄は考えた。その考えには、最澄の泰範への涙ぐましいほどの愛が働いていた、というふうに梅原は憶測するのである。大変興味深い憶測である。

最澄が肉欲に敏感だったらしいことは、ほかのことからも憶測できる。かれは空海が持ち帰った書籍の借用をたびたび申し入れたが、その中に理趣経があった。理趣経というのは、肉欲を肯定する思想を盛り込んだ、仏教としては非常に珍しいお経である。それを最澄は是非貸してくれと空海に申し入れた。ところが空海は、このお経はあなたには相応しくないという理由で貸してやらなかった。そのことで二人の仲は気まずくなっていったのだが、それはともあれ、最澄が理趣経を読みたがったのは、現代の好色漢がポルノ小説を読みたがるのと同じではないか。梅原は、そこまで露骨な言い方はしていないが、どうも最澄に好色の傾向があったというふうに考えているようである。比叡山と言えば、衆道でも有名であるが、それは教祖最澄に淵源を発するということであろうか。

このことから、空海には高飛車で攻撃的な傾向があり、最澄には女々しいところがあるように思われるが、じっさいには、最澄は非常に攻撃的であり、空海のほうは妥協的だったようだ。最澄の晩年は論敵との論争で明け暮れた。その論争には最澄の攻撃的な性格がよくあらわれている。それに対して空海は、ほとんど論争らしいものをしなかった。妥協的な性格から、かれは世間的な成功も勝ち取った。そんなことから、空海俗物説が流れたほどである。一方最澄のほうは、その一途な性格から、宗教的な生活に専念し、比叡山に多くの学僧を集めた。空海の真言宗がその後あまり大衆化しなかったのに対して、最澄の天台宗が鎌倉仏教の揺り籠となったのは、宗教への二人の向かい方の相違に根ざしているのではないか。

面白いのは、最澄からの復縁の呼びかけに対する返事を、泰範が空海に書いてもらったということである。何故そんなことをしたのか、理由はつまびらかではないが、かなりきつい言い方を空海はしている。最澄は、「法華一乗と真言一乗と何の優劣かある」といって、法華を捨てて真言に走った泰範を責めているのだが、それを空海は批判するのである。空海によれば、密教は仏教の最高の教えであり、法華はより低い段階にすぎない。それを一緒にするのは許せない。自分は密教によって悟りを得るつもりだから、あんたは法華のより劣る教えに甘んじているがいい、というような言い方を、空海はしたのである。これは公然たる攻撃であった。二人が絶交状態に陥るのは無理からぬ話である。

空海のこうした考えは、かれの主著「十住心論」で展開されている。十住心というのは、仏教の発展を十段階に整理したもので、無宗教の段階に始まり、小乗、大乗を経て、密教が最高の段階だと主張したものだ。その中で、密教のすぐ下位の段階として華厳が位置づけられ、法華は華厳より更に低い段階に位置づけられていた。こうした整理の仕方は、ほかの宗派にもあり、法華は法華で法華経を最高の経典とするのだが、空海は密教こそ最高の仏教だと考えたわけである。こうした考えは、仏教の実際の歴史的な発展過程とも対応しているので、それなりの理由はある。

そんなわけであるから、密教と法華とを同列に論じる最澄の立場は、空海には許し難かったのである。



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