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曼荼羅の世界


密教は、大日如来の教えを説いたものといわれる。その教えをあらわしたのが曼荼羅であるが、曼荼羅は視覚的イメージだ。大日如来の教えは、主として大日経と金剛頂経に説かれているが、それらは言葉を媒介にした教えである。ところが大日如来の教えは、言葉だけではその全体をつかむことが出来ない。言葉はあくまでも理知的なものである。大日如来の教えには、理知の枠をはみ出す部分もある。そうした部分を含んだ教えの全体像をつかむには、シンボルを通じて接近するしかない。そのシンボルとなるのが曼荼羅なのである。

曼荼羅という漢語は、サンスクリットのマンダラという言葉を音訳したもので、漢語自体には意味はない。原語には、本質とか精髄という意味があり、また道場とか壇という意味もあるという。そこから、世界の本質を道場のような形に展開したものが曼荼羅だということになった。

曼荼羅は、大日如来の教えを視覚的なイメージを通じて展開したものである。その視覚的なイメージは、大日如来の教えの抽象的な内容を、具体的な仏や菩薩のイメージで表現する。しかして、曼荼羅には二種類ある。胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅である。胎蔵曼荼羅は、大日経に説かれている教えに対応し、金剛界曼荼羅は金剛頂経に対応する。どちらも大日如来の教えを説いたものだが、内容に多少の差異がある。その差異を簡単に言うと、胎蔵曼荼羅は理法身としての大日如来の教えを説き、世界の構成原理がその内容となっているのに対して、金剛界曼荼羅は智法身としての大日如来の教えを説き、その内容は精神的なものである。また、胎蔵曼荼羅は大日如来の女性的な原理、金剛界曼荼羅は男性的な原理を表すともいわれる。

曼荼羅は、四角の面のなかに、一定の法則に基づいて仏や菩薩を配置した形であらわされる。まず、胎蔵曼荼羅。これは、中央に大日如来を置き、その周囲をさまざまな仏や菩薩がとりかこむ。仏や菩薩はグループ化されて配置される。そのグループは13あるとされるが、現存するものは12に縮小されているという。中心に位置するグループは、中台八葉院といって、大日如来を中心としてその周囲を(時計回りに)宝幢如来、普賢菩薩、開敷華王如来、文殊菩薩、無量寿如来、観音菩薩、天鼓雷音如来、弥勒菩薩が囲んでいる。

この中台八葉院を中心として、その周囲に11のグループが、ほぼ同心円状に取り囲んでいる。遍知院、観音院、金剛手院、持明院、釈迦院、文殊院、除蓋障院、地蔵院、虚空蔵院、蘇悉地院、外金剛部院である。それぞれ院名となった仏・菩薩を中心にして、諸々の仏・菩薩を配している。興味深いのは、釈迦が他の仏・菩薩と同じ位置づけをされていることだ。釈迦も、他の仏・菩薩同様に大日如来が顕現したものだという思想の反映である。また、地蔵菩薩は、釈迦の滅後、弥勒如来がこの世界に現われるまでの間、衆生を救済する使命を負っているとされる。地蔵信仰は、胎蔵曼荼羅への信仰から出発しているわけである。

次に、金剛界曼荼羅。これは画面を九等分して、それぞれに仏・菩薩を配置する。九会曼荼羅とも呼ばれる。中央を羯磨会といい、大日如来を中心にして、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空如来が取り囲んでいる。羯磨会の下は三麻耶会、そこから時計回りに、微細会、供養会、四院会、一院会、理趣会、降三世羯磨会、降三世三麻耶会となる。一院会には、大日如来がひときわ大きく描かれ、智拳印を結んでいる。智拳印とは、左手の指を右手に包む印相で、大日如来の絶対の智慧を象徴する。

胎蔵、金剛界の両曼荼羅は、もともと別の系統だったらしいが、空海の師恵果が一対のものとしてまとめ、それを空海が受け継いだ。その別の系統の曼荼羅は、それぞれ大日経、金剛頂経に対応するわけである。だから密教の二つの系統を恵果が一つにまとめたともいえよう。

空海は、曼荼羅を布教の柱として使った。それのみならず、自分自身の世界観を曼荼羅に対応させながら展開した。高野山や東寺にもそうした曼荼羅の思想が盛り込まれている。宮坂宥勝によれば、高野山の伽藍配置は、曼荼羅を念頭に置いたものだという。東塔は胎蔵曼荼羅、西塔は金剛界曼荼羅のそれぞれを具現したものとし、その間の金堂を即身成仏のための修行道場に見立てたというのである。

京都の東寺は官寺を賜ったもので、伽藍配置に密教の影響はないが、空海は講堂の仏像配置に曼荼羅の思想を盛り込んだ。すなわち中央に大日、阿閦、宝生、無量寿、不空成就を配して金剛界曼荼羅の羯磨会をあらわし(一部、弥陀と無量寿が入れ替わっているが、この二仏は同じものである)、その右側には金剛般若波羅蜜、金剛薩埵、金剛法、金剛宝、金剛業の五菩薩、左側には不動、降三世、大威徳、軍荼利、金剛夜叉の五明王、四隅には四天王、両側には梵天、帝釈天を配する。まさに曼荼羅を立体的に展開したような配置である。

曼荼羅は、日本の美術に甚大な影響を及ぼした。曼荼羅は非常に色彩豊かである。日本美術には、淡白な色彩を重んじる伝統もあるが、一方では、色鮮やかなものを好む伝統もある。そちらの伝統を密教が支えたということなのだろう。また、能にも密教は浸透している。能にはキリの部分でとくに、密教の諸仏の名前を唱えることが多い。能の曲は、世阿弥のものを中心に、足利時代に盛んにつくられた。ということは、足利時代には密教が広く浸透していたことを物語っているのではないか。



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