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日本の禅


日本の禅は、栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を導入・布教したことから始まる。栄西は比叡山で天台宗を学び、二度にわたって宋に留学した。最初の留学は、密教理解の深化が目的で、禅についてはそれほど力を入れていない。二度目の留学の際に、臨済宗を研究・修行し、それを日本で布教した。臨済宗は、南宗禅系統の禅で、当時の中国では禅の主流であった。

道元は、栄西にとっての孫弟子にあたる。年齢には59歳の開きがある。だから栄西に直接師事したわけではなく、栄西の後継者明全に師事した。その明全とともに宋に留学し、曹洞宗を学んだ。曹洞宗は、臨済宗と同じ南宗禅の系列だが、臨済宗全盛の当時の中国にあっては、時代遅れと見られていた。それをわざわざ道元が選んだのは、禅の本来の姿に帰るべきだとする考えがあったからだと思われる。道元が留学した頃には、臨済宗は公案中心の理屈ばった形式主義に流れ、禅本来の宗教的な熱気が失われていた。それに不満を感じて、道元は禅本来の実践的な性格を取り戻そうとして、曹洞宗に魅力を感じたのではないか。

臨済宗と曹洞宗の相違を簡単に言うと、臨済宗は公案中心、曹洞宗が只管打坐ということになろう。臨済宗は公卿や上級武士など支配層に普及し、曹洞宗は地方の武士や庶民の間に普及した。鎌倉五山や京都五山の文化は、臨済宗のものである。それに対して曹洞宗のほうは、華やかな文化を生み出してはいない。そのかわり、庶民の宗教心を強く捉えたといえよう。

鎌倉・室町時代を通じて、臨済宗のほうは公案中心で、禅のバイブルといわれる臨済録、碧巌録、無門関のうち、碧巌録がよく読まれた。碧巌録は公案集といった体裁の書物である。ところが、徳川時代になると、その公案主義に乱れが生じたので、白隠和尚が立て直した。今日の日本全国の臨済宗は、白隠の系統として、公案中心のあり方をとっている。漱石の小説の主人公が、鎌倉の円覚寺で座禅する一方、出された公案に呻吟する場面はよく知られている。

徳川時代の初期に、滅亡した明から隠元和尚がやってきて黄檗宗を開いた。黄檗宗は、禅の復興運動というべきもので、形式に流れがちだった臨済宗を批判し、禅本来の姿を取り戻そうとするものだった。だから実践的な性格が強い。その黄檗宗に刺激されるかたちで、曹洞宗も実践的な性格を強化させたといわれる。

近代になって、欧米諸国に禅への関心が高まった。そのきっかけをつくったのは、鈴木大拙が英文で書いた禅に関する書物だった。とくに、「大乗仏教概論」は大きな反響を呼んだ。大拙はその本を、「大乗起信論」を種本として書いたのだったが、大乗起信論は禅者の間でよく読まれたものだった。大乗起信論の説のうち最も重要なのは如来蔵思想である。如来蔵思想というのは、すべての人間には本来仏性があるとするものだ。座禅をすることで、その仏性に目ざめるという考えにそれはつながるわけだが、そうした考え方は、禅に本来そなわっていたものだ。とりわけ実践的な性格の強い曹洞宗について、特にそう言えるのではないか。

西田幾多郎は、大拙の友人として、やはり禅に親しんだ。西田の思想は、無を強調することにあるが、その無の思想を西田は禅から学んだ。西田は、無門関をよく読んだという。禅の書物は、一般に無を強調するところがあるが、無門関はとくにそうだ。無門関は48の公案からなる。その第一は「趙州無字」というものである。これは無についての公案であって、それから始まるということは、無門関が無の問題を特に重んじていることを物語っている。

この無門関は、禅の本場中国ではほとんど読まれていないらしい。ところが日本では、最も読まれた禅書である。そんなところに、中国禅と比較した日本の禅の特徴が認められる。日本の禅は、とりわけ無にこだわる禅だと言えそうである。中国の禅は、老荘思想の影響を受けたということもあって、人生に対する悠然たる態度が認められる。それに対して日本の禅は、無にこだわるあまりに、余裕のない修行いってんばりの、窮屈なものになってしまったというのが、柳田や梅原の見立てのようである。



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