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中国禅の特色


中国の禅は、唐の時代の前期、紀元7世紀の後半から8世紀のはじめ頃にかけて、北宗禅と南宗禅の対立を経て、南宗禅が主流となり、9世紀の中ごろに臨済が全盛に導いた。臨済の禅の特徴は、理論よりも実践を重んじることだったが、そういう実践優位の姿勢は、時代が下るにしたがって次第に強まった。それと同時に、生真面目なものになっていった、というのが柳田や梅原の見立てである。臨済録を読むと、ユーモアというか、心の余裕が感じられるが、その後の碧巌録や無門関はユーモアがなくなり、まじめ一辺倒になっていったというのである。

もっとも臨済自身は真面目人間であり、ユーモアがあったとは言っていない。臨済録の中で、ユーモアを体現しているのは普化という人物である。この人物が臨済を片目の洟垂れ小僧だといって茶化したり、なにかと臨済を相対化する。そこにユーモアが生まれるというわけだが、碧巌録以降になると、そのユーモアがなくなり、堅苦しい雰囲気が支配するようになる、と言うのである。

ところで、この三つの書物、臨済録、碧巌録、無門関が日本の禅宗のバイブルになっているが、中国では無門関はほとんど読まれず、臨済録と景徳伝灯録がよく読まれているという。これらはすべて、お経ではなく語録のようなものである。仏教は釈迦の言葉を記録したという、お経を中心に成り立っているものだが、禅宗ではお経をあまり重視しない。それは中国と日本に共通する傾向らしい。それについては、歴史的な背景があると柳田らは言っている。従前は、何を主張するのでも、自分の意見をストレートに表現するのではなく、釈迦の言葉だということにして権威を持たせようとした。だから、ある意味偽ものと言ってよい。大乗仏典などは、そういう意味でみな偽教である。なにしろ釈迦の死後数世紀後に、釈迦の言葉を装って書いているわけである。

日本の臨済宗は、漱石の小説にもあるとおり、公案が中心になっているが、中国の臨済宗はかならずしもそうではない。だいたい臨済録には公案は出て来ない。公案が出てくるのは、碧巌録以降ということらしい。「正法眼蔵随聞記」のはじめのところで「南泉斬猫」の話が出てくるが、これは碧巌録に出てくる公案である。

中国では、当初は臨済録がよく読まれ、臨済の言った言葉が尊重されたのだが、そのうち碧巌録が流行するようになると、公案が修行の中心になった。そこで臨済宗は臨済の教えから程遠いものになった、というのが柳田らの意見である。その堕落した臨済宗に活をいれて、臨済宗を本来の形に復興させたのが隠元だということらしい。隠元は黄檗宗の宗祖ということになっているが、黄檗宗というのは、禅を臨済の時点まで立ち返らせる運動だったという。

以上は、外形的な歴史の流れということになるが、では内容的な特徴はどういうものか、ということが問題になる。これについては、そんなに整理されているわけではなく、また日本の禅との相違についてもいまひとつ明確になっていないのだが、一応二つの視点が提起されている。一つは中国の禅が天台との対立を通じて確立されたということ、もう一つは空に代って無を強調したことである。

天台には「摩訶止観」というバイブルがあるように、天台も座禅を重視していた。止観というのは、禅定の様式をさしているのである(「摩訶止観」は大いなる禅定というような意味である)。しかし天台の座禅は、六波羅蜜の一つとして、数ある修行の中の一つに過ぎなかった。それに対して禅は、座禅を修業の中心に位置づけた。座禅こそが人をさとりに導くとしたわけである。そういう座禅重視の立場に加え、華厳的な世界観をからませた。華厳的な世界観というのは、人間はそのままの姿で仏性を備えているとする。本来仏性を備えた人間が、座禅を通じて精神を集中することで、自己の中の仏性を顕現できるというのが禅の基本的な考えである。したがって禅には、非常に楽天的なところがある。

また、空にかわって無を重視するということについては、柳田らは、無門関によってその思想が確立されたと見ている。空というのは、般若経が説くところであり、大乗仏教の基本的な考えである。それは人間を含めた世界のあり方を、因果関係の網の目と見るものであり、その因果関係の網の目から解放されて、無我の境地に入ることが目的とされていた。その場合の無我といい、無というのは、なにもないことではなく、あるでもなし、ないでもなし、ということを意味した。無には実体的な存在性格は付与されていないわけである。それに対して禅は、無を実体的なものと見た。その実体的な存在としての無を、仏教がめざす涅槃の境地としたわけである。

ところが、その無門関は、中国ではあまり読まれていないとかれらは言う。にもかかわらず、無門関が説くところの無の境地が、中国禅の顕著な特色であるというのであるから、我々読者としては、なにか釈然としないものを感じざるを得ない。



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