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アビダルマの宗教史的位置づけ


「仏教の思想」シリーズ第二巻「存在の分析<アビダルマ>」の第二章は、担当著者の桜部建、上山春平に加え、仏教学者の服部正明を加えて、「インド思想とアビダルマ」という題のもとで、アビダルマの宗教史的な位置づけ、即ちアビダルマの伝統的なインド思想との関係とか大乗仏教との関係などについて解明する。

その議論を読むための前提として、伝統的なインド思想について理解しておく必要があろう。それについては、立川武蔵による解説が、ごく簡単な見取り図を示している。まずリグ・ヴェーダなどのヴェーダ類が生まれた。ヴェーダは、古代インドの最も古い聖典であり、インド思想の原点となるような考えが盛られているということらしい。ついで紀元前6~7世紀頃にウパニシャッド群が生まれた。ここにおいて、インド思想の中核概念であるブラフマンとかアートマンといったものが論じられるようになった。もっともそこには体系性とか徹底性といったものはまだ欠けていた。古代インド思想を体系化したのは、ヒンドゥー教のサーンキャ学派である、またニヤーヤ学派やヴァイシェーシュカ学派は、インド伝来の思想を論理的に精緻化した、といった具合だ。

以上を暗黙の前提としたうえで、対談者らは、インド伝統思想に比較したアビダルマの特徴を論じ、また同じ仏教としての大乗との相違について論じるわけである。インド思想との関係においては、なにが共通しており、なにが違っているか、ということに焦点が置かれる。

まず、インド思想とアビダルマの共通点。これについては、世界観・宇宙観にかかわるものと、人間を含めた生あるものの存在のあり方が焦点となる。インド思想では、三千世界ということがいわれ、宇宙についての整序された見方があるが、そうした見方はアビダルマにもある。それを越えて大乗仏教にも引き継がれている。そうした世界観はだから、インド人に固有なものとして、インド的な思想全般にいきわたっているのだろう。

もう一つの共通点は、人間の存在のあり方についての考えである。これは輪廻転生とか業といった形をとる。輪廻転生というのは、生き物は一階限りの命を生きるのではなく、死んだ後で別の世界に生まれ変わり、それを永遠に繰り返すというものだ。そうした輪廻転生の考えは、リグ・ヴェーダ以来、すべてのインド思想を彩っている。それを仏教も受け継いで、小乗も大乗もこの思想を共有している。鎌倉仏教を含めた日本の大乗仏教も同様である。日本人にはもともと輪廻転生の考えが萌芽的にあったのか、それとも仏教によってはじめて教えられたのか、その辺は、興味深い研究対象になるだろう。

輪廻転生が生命の循環を形式的に説明するものだとすれば、業のほうは、その輪廻転生を実質的に進める要因である。これは縁起とか因果といったものを内実とする。すべての生き物は、ある世界における行為が原因となって、後世におけるあり方につながっていく。すべてを因果応報として、因果関係の織り成す糸のようなものとして捉えるわけである。

次に相違点。インドの伝統思想も仏教も、輪廻からの超脱を目指す点では同じである。だが方法が違う。伝統思想では、宇宙の根本原理としてブラフマンを立て、他方では個人の実体としてアートマンを立てる。輪廻とはそのアートマンが業を引きずっていくことで循環すると考えられている。アートマンが輪廻から抜け出すためにはブラフマンと一体となる必要がある。これを漢語で「梵我一如」という。現在する人間が抽象的な原理であるブラフマンと一体となることで、輪廻から脱出できると考える。「梵我一如」は、密教の即身成仏に似ていると対談者たちはいう。じっさい真言密教などは、仏教の中でももっともバラモン教的な要素が強いということだ。

ウパニシャッドなど伝統的なインド思想は、アートマンとしての個人が最高原理としてのブラフマンを瞑想し、それと一体となることで解脱を図ることを目的とする。その修行は非常に知的で観想的な性格が強い。それに対して仏教のほうは、実践を重んじる。その点、仏教は倫理的な性格が強い。ブラフマン思想のほうは神秘主義的直観に傾きがちだと対談者たちは言う。

仏教における解脱の道は、戒、定、慧という言葉であらわされる。戒は修行にあたって自己に課した厳しい態度をいい、定は禅定とも呼ばれ、精神を集中させること(三昧)をいい、慧は解脱のために必要な智慧のことである。これらを通じて、修行者の主体的で実践的な行いが求められる。仏教の基本的なあり方は、そうした自力本願的な修行にあったといえるのではないか。そこは他力本願を唱える浄土宗とは違う生き方がもともと仏教にはあったのだと思う。

仏教独自の思想として刹那滅というものがある。これは小乗の説一切有部がとくに強調した思想で、大乗の唯識派も主張しているが、中観派は否定している。そういう面では、仏教全体に共通する思想とはいえないが、インドの伝統を踏まえた思想の中には他に見られないユニークなものである。この考えが出てきたのは、仏教本来の思想である諸行無常とか、諸法無我といったものと、連続しているように見える存在の外観とを、矛盾なく結合するための工夫のように思われる。

対談者たちは最後に、仏教内部の三つの流派、アビダルマ、中観、唯識の関係を次のように整理している。「アビダルマがまず阿含を整理して一つの理論体系を立てる。そこでは「法体」というものが前提になっている。それを中観が否定し、その否定を踏まえて唯識が再構成する。したがって、アビダルマー中観―唯識というのは仏教思想における一つのセットですね」。ここで法体というのは、存在するものの本体というような意味である。アビダルマと唯識はそれを前提とし、中観は否定するわけである。

以上からも浮かび上がるように、小乗のアビダルマは、大乗仏教の中にも息づいている。だから無視するわけにはいかない、というのが対談者たちの結論的な意見である。



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