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ダルマの体系:倶舎論の構成


アビダルマの中核部分は、存在を分類整理したダルマの体系にある。分類の基準にはいくつものものがある。桜部建は、五蘊、十二処、十八界といったものをダルマの分類基準の基本としてあげているが、倶舎論では五位七十五法が示されており、それがアビダルマにおけるダルマの分類の最終的な(もっとも整った)体系だとする。それを踏まえて上山は、倶舎論におけるダルマの体系について論じる。

五位七十五法とは、ダルマ(存在)をまず五つに大分類したうえで(五位)、それらを更に七十五に小分類したものである。五位は、色、心、心所法、心不相応行、無為からなる。色以下心不相応までの四つは有為であるから、五位は有為と無為とからなるともいえる。有為とは作られたものを、無為は作られた世界を超越したものを意味する。だから有為は煩悩多き現世をさし、無為は煩悩なきさとりの世界をさす。

ところで、有為といい無為というのは、煩悩と涅槃との対立を反映した分類である。煩悩を去ってさとりを開くというのは、輪廻転生の世界を超脱して涅槃の境地に達するということである。この煩悩から涅槃への超脱を、釈迦は四諦という形で示した。釈迦の始めての説法である初転法輪は、この四諦についての話だったのである。

そんなわけであるから、ダルマの体系を示した五位七十五法は、有為・無為の対立を通じて、四諦の原理に従って整理されているといえる。四諦のうち、苦集滅が有為に対応し、道が無為に対応する。

以上を踏まえた上で倶者論の構成をみると、興味深いことがわかると上山は言う。倶舎論は次の九章からなる。(一)界品、(二)根品、(三)世間品、(四)業品、(五)随眠品、(六)賢聖品、(七)智品、(八)定品、(九)破我品。このうち、界品と根品は小乗仏教の一般的な概念についての説明であり、世間品から定品までがダルマの体系についての議論の本体部分であり、破我品はあとがきのようなものである。そして本体部分についていえば、世間品が四諦の苦にあたり、業品と随眠品が集にあたり、賢品が滅にあたり、智品と定品とが道にあたるということになる。要するに倶舎論の構成は、四諦の考え方にもとづいて見事に整然と立てられているということになる。

四諦とは、煩悩を脱して涅槃の境地に至る道筋を示したものであるから、きわめて精神的な原理といえる。その精神的な原理でこの世界全体を説明しようとするのが倶舎論の狙いだと指摘できよう。ということは、倶舎論のよって立つ世界観はきわめて精神論的なもの、あえていえば唯心論的なものだといえなくもない。

倶舎論の作者ヴァスパンドゥ(世親)は、大乗仏教の唯識派の大成者でもある。唯識派の最大の特徴は、唯心論的な世界観にある。ということは、小乗仏教のアビダルマと大乗仏教の唯識思想というまったく違ったものが、唯心論を通じて結びついているといえなくもないわけである。そしてその唯心論の仏教的な源泉は、四諦の思想にあるといえそうである。

小乗仏教から大乗仏教への流れは、だいたい次のように整理することができる。小乗仏教を否定する形で大乗仏教が起こったが、それは当初、ナーガールジュナ(竜樹)によって、中観思想という形で整理された。中観思想は小乗の説一切有部との対立から生まれたが、説一切有部が我やその対象の存在を前提としたのに対して、中観思想は我も対象も存在せず一切は空であると主張した。唯識思想は中観思想との対立から生まれたのであったが、中観思想とは正反対に、我の存在を主張した。つまり、小乗を中観が否定し、その否定を唯識が否定したという関係にある。唯識は、否定の否定を経て成立したといえる。その否定の否定を媒介したのが、もともと唯心論的な傾向を強く持っていたヴァスパンドゥであったといえそうである。

ところで、仏教の基本的な考えに諸行無常というのがある。これは阿含経のなかでも中心命題となっているものだ。諸行無常というのは、あらゆるものの定在を否定する考えであるから、我の定在を前提とする説一切有部や唯識の考えとは矛盾するところがあると指摘された。その矛盾を解決するために導入されたものが刹那滅の思想だ。これは説一切有部と唯識のどちらも採用している。刹那滅というのは、あらゆる物は一瞬にして消滅するという考えである。だから定在することはない。定在しているように見えるのは、外見上のことに過ぎない。すべてのものは、生じると即消滅し、その直後にまた生じる。その繰り返しが、外見上は定在しているように見えるという考えである。この刹那滅を、我や対象の存在の根拠とすることには、かなりな無理があるように思えるが、説一切有部もヴァスパンドゥもそれで以て我の存在を基礎付けたと思ったようだ。

諸行無常は、有為について言われることである。無為については、寂滅為楽という言葉がある。煩悩を脱して悟りを開けたら、存在することから解放されて、涅槃の境地に遊ぶことが出来る。それを寂滅為楽と呼んだわけである。この一対の言葉は平家物語や近松の浄瑠璃にも引用されている。平家物語冒頭の章では「祇園精舎の鐘の音諸行無常と響くなり」といい、曽根崎心中のクライマックスの場面では、「鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽と響くなり」という具合に。



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