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存在の分析<アビダルマ>:仏教の思想②


角川書店刊「仏教の思想」シリーズ第二巻は、アビダルマがテーマである。アビダルマとは、小乗仏教の教義を解説したものだ。小乗仏教は、アーガマ(阿含経)と呼ばれるお経を拠り所として釈迦の教えを説くものだが、アーガマ自体は折々の釈迦の言葉を書きとめたもので、体系的ではないし、簡潔すぎて意を尽くさないところも多い。そこで足りないところを補い、また釈迦の言葉相互の関係を明らかにし、体系的に説いたものが、アビダルマといわれる。大乗仏教には、釈迦の教えを記した経、その教えを実践するための基準を示した律、教えの内容を理論的に解説した論があるが、小乗仏教も同様であって、大乗の論に相当するものがアビダルマである。

そのアビダルマについて、仏教学者の桜部建と哲学研究者の上山春平が解説している。桜部はアビダルマの理論的な内容について、上山はアビダルマの宗教史的な位置付けについて主に解説している。

小乗仏教は部派仏教とも呼ばれ、多くの宗派に分かれていた。そのいずれの宗派にもそれぞれにアビダルマがあった。しかし残っているものは少ない。もっとも多く残っているのは、説一切有部と呼ばれる宗派のアビダルマである。さまざまなテクストがあるが、中でももっとも重要なのは、ヴァスパンドゥ(世親)があらわした「アビダルマ・コーシャ(倶舎論)」である。ヴァスパンドゥ自身は大乗仏教の唯識思想の大成者として知られるが、もともとは小乗仏教の理論家であり、その立場からアビダルマを体系化したものである。この本は、ヴァスパンドゥの「倶舎論」に依拠しながら、小乗仏教のアビダルマについて解説する。

「アビダルマ」という言葉は、ダルマについての研究という意味だそうである。ダルマは法と訳されるが、多彩な意味内容を持っている。法則とか基準といった意味のほかに、存在という意味も含んでいる。アビダルマにおけるダルマの意義付けは、その存在ということである。よってアビダルマとは、存在についての考察と言ってよい。小乗仏教の立場からする世界の存在のあり方についての考察である。存在の分析、あるいは単に存在論と言ってもよい。小乗仏教的世界観とも言える。

小乗仏教は、大乗仏教より早く成立しており、釈迦の言葉を記したという「阿含経」は、原始仏典として釈迦本来の思想にもっとも近い内容を含んでいるとされる。ということは、大乗仏教を含めた仏教全体に共通する根本的な教義が含まれていると受け取ることができる。じっさい、アビダルマには、大乗仏教にとっても根本的な思想となるものが多く含まれているのである。そんなわけで、大乗仏教においても、アビダルマは、とくに世親の著した「倶舎論」は、仏教理解の基礎的な文献として尊重されてきた。南都仏教の一派に倶舎宗というのがあるが、これは世親の「倶舎論」を基礎とした教義を布教する宗派である(倶舎宗は興福寺によって伝えられてきた)。

「倶舎論」の内容は多岐にわたるが、ここでは大乗仏教にも通じる仏教共通の根本的な思想にわたる部分を取り上げてみたいと思う。

まず、世界観。仏教は、キリスト教やイスラム教のような一神教ではなく、世界が神によって無から作られたという見方はしない。世界は神のような外在的な力によって誕生したのではなく、世界内部からの自然な勢いから生成したと見る。その自然な勢いのことを仏教ではサットヴァ・カルマン(有情)と呼ぶ。特殊な生命原理のことである。その生命原理が自発的に動くことで、世界が生成すると考える。つまり世界は作られたのではなく、なんとなく生まれたのである。こういう世界観は、仏教特有のものではなく、インド思想全体に共通するものを仏教が取り入れたということらしい。インド人も、世界は作られたとは考えずに何となく生まれたというふうに考える。そうした考え方は、日本人にもあるだろう。この本の著者たちは、日本人のことは持ち出してはいないのだが、かれらの解説を読んでいると、仏教は、日本人を含めた東洋人の思考様式を色濃く反映していると思わされる。

次に人間論、というよりか人間を含めた命あるもの(有情)についての考え方。仏教の特徴は、世界をまず物質的な拡がりとして考えるのではなく、生命あるものがその生命を展開する場としてとらえることにある。世界は生命で満ち溢れたものとして捉えられるのである。その生命あるもの、有情のあり方は、「三界」、「五趣」、「四生」という言葉によって説明される。「三界」とは、欲界、色界、無色界のことである。欲界とは欲望の世界、色界とは物質的な世界、無色界とは物質とは異なった純粋に精神的な世界のことをさす。世界をこう分類することで、世界に人間的な色彩を施しているわけである。五趣とは世界を、地下の地獄、地表の餓鬼、畜生、人間、天上の天界にわけるもの。これに阿修羅を加え、六趣あるいは六道とすることもある。四生とは有情が生まれるさいの生まれ方をいい、胎生、卵生、湿生、化生からなる。人間は胎生に分類される。これは生き物が輪廻転生を繰り返す際の一つの原理となっている。

そこで輪廻転生ということが中心的な話題となる。仏教の思想の基盤には、この輪廻転生の考えがある。輪廻転生とは、生き物は一度だけ死生を体験するのではなく、死んだ後も別な形で生まれ変わり、それを永遠に繰り返すと見る。その繰り返しの原理となるのは、因果応報の思想である。因果応報は善因楽果、悪因苦果という具合に、行いに応じた報いを受けるというものである。前世の行いが原因となって、後世にそれ相応の報いを受けるというわけである。生き物はこの因果応報の原理にしたがって永遠に輪廻転生を繰り返す。なぜそうなるのか。煩悩のためだというのが仏教の答えである。煩悩があるために生き物は永遠に輪廻転生から抜け出ることができない。たとえ天国に生まれ変わったとしても、それは輪廻の一つの段階に過ぎず、場合によっては、また地獄に落ちるかもしれない。キリスト教のように天国に生まれ変わることが人間の究極の目的ではないのだ。

仏教にとっての究極的な目的は、この輪廻転生から超脱することなのである。輪廻転生から超脱するとは、この世界の束縛から脱して、究極的な意味で自由になることである。そのためには、煩悩から自由にならねばならない。仏教が説くさとりとは、あらゆる煩悩を取り去って、自由な境地になることを意味するのである。

輪廻転生は、因果応報の原理によって繰り返されるが、その因果応報のことを、業とか縁起とかいった別の言葉であらわすこともある。こうした考えは日本人にもなじみやすいと見え、早い時期から日本人の精神に広く受け入れられたと著者は言う。たしかに、日本人は、自業自得だとか何かの因縁とか、因果応報にまつわる言葉をいまだに好んで使っている。

因果応報とか、その根拠となる煩悩とか言う場合に、「有漏」と言うことが問題になる。仏教は世界の分類原理として、この有漏と無漏の対立を持ち出す。有漏は煩悩の世界、無漏は煩悩なき世界のことをさす。これはまた、有為、無為の対立としても言い表される。どちらにしても、煩悩という精神的なものが、世界の分類原理となっているわけである。そこに宗教としての仏教の意義がある。仏教は世界をあくまでも、人間がそこで生きている場として捉えているわけである。

桜部が担当する第一部は、このあと、ダルマの体系についての詳細な解説に映る。その部分はあまりにも煩雑であり、また、上山が、別に簡略化した見取り図を示しているので、後に別途触れることとしたい。



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