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高橋正衛「二・二六事件」を読む


高橋正衛の著作「二・二六事件」は、1965年に初版が出てから数十版を重ね、今日まで読み継がれてきたというから、ニ・二六事件の研究書としては古典的なものであろう。研究書としては多少かわった構成になっている。事件の詳細をドキュメンタリー風に追いかける部分と、事件の背景や歴史的な意義について解明する理論的な部分とに分かれており、重心はドキュメンタリー部分におかれている。それは高橋が出版編集者の出身であり、また若年の頃にこの事件を身近に感じたということにも理由があるようである。

二・二六事件を起こした青年将校たちに高橋はかなりな同情を寄せている。その是非はさしおいて、かれらの動機はそれなりに純粋なものであり、日本という国を立て直したいという願いに裏付けられていた。高橋はかれらの動機を「昭和維新」という言葉であらわしているが、これは国家の立て直しを目的とする運動をいう。そう言うことで高橋は、かれらに対して維新の志士というような扱い方をしている。その彼らの純粋な気持ちはないがしろにされ、逆賊の汚名を着せられて処刑された。だが彼らの死は無駄ではなかった。この事件を利用する形で、陸軍内の統制派が、皇道派を排除して実験を握り、戦争遂行体制の確立に向けて突き進むことができた。

そんな見方を高橋はしているのだが、その場合に決定的な役割を果たした昭和天皇については、あまり立ち入った説明はしていない。青年将校らが逆賊の汚名を着せられたのは、昭和天皇の強い意志によるものだったということは高橋も言っているが、昭和天皇がなぜかくも彼らを嫌悪したかについては、納得できる説明がなされているとは言えない。昭和天皇に対する忖度があったせいかもしれぬ。小生などは、昭和天皇がかれらに激怒したのは、最も信頼する臣というべき侍従長鈴木貫太郎が瀕死の重傷を負わされ、貫太郎夫人も死の恐怖を味あわされたことに激怒したからだと思っている。貫太郎夫人は、昭和天皇の乳母であり、昭和天皇が激怒するのは当然なのである。

事件直後、軍上層部には青年将校に対する同情論があった。五・一五事件をめぐる軍部内の同情論を引き継いだものだ。その同情論が事件の処理に大きな影響を及ぼす。一つは青年将校説得の過程で、青年将校を免責するかのような内容の「陸軍大臣告示」が出され、青年将校らに自分たちは成功したのだという幻想を与えたこと、もう一つは青年将校に投降を命ずる奉勅命例が青年将校らの手許に届かなかったこと。そのため、青年将校は、いきなり逆賊の汚名を着せられたことを、騙されたと感じた。これは青年将校らにとって耐えがたいことだったはずだといって、高橋は深い同情を示すのである。

高橋の見立てでは、青年将校らの蹶起は、軍部内における統制派と皇道派の対立に連動し、統制派による皇道派の排除にうまく利用されたということになる。その際に高橋は、真崎仁三郎の果たした役割に注目している。真崎は、青年将校らが蹶起後に成立すべき政権の首班に擬していたほど青年将校から信頼されていた。真崎はじっさい、蹶起直後は青年将校らに肩入れする動きを見せていたが、事態が蹶起を否定する方向に動き出すや否や、自分の身の保全にやっきとなった。そんな真崎は実にひどい男である、というのが高橋の評価である。

事件の背景をめぐる高橋の見方は、非常にうがったもので、一部の現代史研究家に大きな影響を与えた。それは、二・二六を、五・一五や満州事変、血盟団事件などと関連付けて見るものである。五・一五とその前後に連続的に起こった一連の事件は、軍がクーデターを起こして権力を握り、腐敗した政党政治を打破して、理想的な国体を実現することをめざした。その運動が、満州における事変をきっかけにして軍部のヘゲモニーの確立を狙い、それを後押しするものとして、民間右翼による有力者の暗殺および軍部による権力の掌握をめざす五・一五事件という形をとった。これら一連の動きはだから、昭和維新運動の第一波の動きというべきであり、それに続く二・二六事件は第二波の動きと位置付けることができる、というのが高橋の基本的な見立てである。

二・二六事件は、多数の下士官や兵を巻き込んだのだが、その背景には日本軍の命令・絶対服従体制というものがあったと高橋は見ている。この体制が絶対的な圧力で下士官以下の兵士を拘束しているおかげで、兵は上司たる将校の命令に、疑いを抱かず従わざるをえなかった、というのである。兵士の親たちも、息子は上官の命令に従っただけで、そのことで責任を追及するいわれはない。もしそんなことになったら徹底的にさからってやる、というような意志表示をした。軍法会議が青年将校らには厳しく望む一方、一部を除いてほとんどの下士官・兵を軽い処分ですませたのは、そういった事情があったからだと高橋は言う。たしかにそのとおりだろう。

二・二六事件の処理にあたっては、北一輝のような民間人も有罪となって処刑されている。北一輝は、青年将校らに思想的な影響を与えたことを問われたわけだが、その北一輝と青年将校とのかかわりについては、この著作はほとんど触れていない。ただ、北はいさぎよく死んだと言っているだけである。


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