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小山俊樹「五・一五事件」を読む


小山俊樹の著作「五・一五事件」(中公新書)は、五・一五事件を微視的に追跡したものである。一応社会的な背景や思想的な意義についての説明もあるが、それはほとんどつけたしといってよく、あくまでも事件を実行した軍人たちの動きを中心にして、事実関係を微視的に追ったものと言ってよい。したがって、歴史書としてはかなり中途半端な印象はまぬがれない。歴史の研究というより、事実の検証といったほうが当たっている。もっとも著者によれば、二・二六事件のほうは多くの研究がなされ、その全貌がかなり詳細にわたって明らかにされているのに比べ、五・一五のほうは、研究書の数も少なく、未解明な部分が多いので、事実関係を明らかにするだけでも大きな意義があるということらしい。

五・一五事件の歴史的な意義は、日本の軍事ファシズム化にとって露払いの役目を果たしたことにある。その点では、ほぼ同時期に起きた満州事変とか民間の右翼テロ血盟団事件と深いつながりを持っている。満州事変は、日中戦争から太平洋戦争へと発展する対外戦争の発端となったもので、日本を軍国主義へと導く最大のバネとなった。血盟団事件は民間右翼のテロであるが、そのテロを通じて、世論を右傾化させる衝動力となった。これに対して五・一五事件は、政党政治を終わらせ、軍部独裁へと道を開く役割を果たした。五・一五事件は、軍の一部にあった国家改造運動の現れであるが、その運動はほかにもいくつかのクーデター計画となって噴出していた。五・一五事件はそうした動きがもっとも先鋭的なかたちで表現されたものである。

だから、五・一五事件は、単独で扱うのではなく、軍事ファシズムの大きな流れの中に位置づけて論じる必要がある。だがこの著作は、そうした必要に必ずしも応えていないようである。事件にかかわった人物のつながりを通じて、たとえば大川周明と井上日召とが深い因縁で結ばれていたとか、軍内部の人間関係を通じて、五・一五事件の当事者と石原莞爾との間になんらかのかかわりがあったことなどが指摘されてはいる。しかしそれは、人間関係を通じての偶然の結びつきのように扱われ、互いに密接にかかわりあっていたとはされていない。

そんなわけであるからこの著作は、五・一五事件を、単発的な事件として扱ったうえで、それが日本の軍事体制への移行にそれなりの影響を及ぼしたと評価するくらいにとどまっている。そうした態度は、五・一五事件を、社会の変動というダイナミズムの中において見るのではなく、事件に参画した軍人たちの思想や行動に焦点をあてるということにつながっている。思想と言っても、かれら事件を起こした軍人たちに、まともな思想があったようには書かれていない。悲憤慷慨といった情緒的な気分が事件をひきおこしたかのような書き方になっている。

小生自身は、満州事変、血盟団事件、五・一五事件は、ある統一した理念のもとで、相互に連携しながら実現された一体的なものだったと見ている。その理念とは、腐敗した政党政治を終わらせ、軍人や右翼の愛国者が中心になって理想的な国づくりをしようというものであった。そのため、石原らが中心になって満州事変を起し、日本を軍事全体主義国家へと作り直す動きを始めた。それに呼応して、井上日召の血盟団が、腐敗した政治家や巨大資本の領袖の暗殺を謀る一方、軍のエリート将校によるクーデターを通じて、政治権力を一気に掌握する、というようなシナリオが共有されていたのではないか。軍によるクーデターは、満州事変の直後に十月事変という失敗したクーデター計画という形でまず現れたが(その前に三月事件がある)、それが翌年の五・一五事件となって現れた、と小生は見ている。つまり、繰り返すことになるが、五・一五事件は、満州事変及び血盟団事件と同根のものとして扱う必要があるのだ。

五・一五事件の当事者のうち、著者が最も注目しているのは三上卓であるが、この男は事件後も生き残って、右翼の運動に深くかかわり続けた。かれが何故右翼の運動にのめりこんでいったか、この本を読んだだけでは、理由がよくわからない。おそらく、もともと右翼思想の持ち主であり、五・一五事件はそうした右翼思想の実現として企まれたものだったと思われる。そういう点では、石原の満州事変や井上の血盟団が右翼思想に駆られて行われたと同根のものと言える。ところがこの本は、三上に五・一五事件の思想的な部分を代表させ、その三上をまともな理屈を持たない人間として描いているために、右翼思想が事件を引き起こしたということにはなっておらず、三上は事件後に右翼に傾いていったというような書き方になっているのである。

当時日本のあちこちにうごめいていた右翼の動きは、それなりに追ってはいる。特に大川周明は、五・一五事件の首謀者たちに金銭的な援助まで与えていたと言っている。大川がその金をどのように工面したかまでは触れていない。おそらく当時は、右翼運動の巨大な流れができていて、その流れに各方面から資金が流れ込んでいたのであろう。


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