日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板


新右翼の登場:日本の右翼


戦後右翼の主流が反共親米であったことは前述したとおりだが、その姿勢に反発して、新たな右翼の姿を求める動きが1960年代半ば以降に出てきた。今日新右翼と呼ばれる勢力の登場である。新右翼の源流としては、1966年に早大を拠点にして結成された日本学生同名(日学同)、および1969年に、やはり早大を中心にして結成された全国学生自治会連絡協議会(全国学協)である。どちらも学生運動から生まれたという共通点がある。

まず、日学同については、当時吹き荒れていた学生運動に対抗して学園紛争の解決、日本民族精神の回復等をスローガンにしていた。かれらは戦後日本の体制をヤルタ・ポツダム体制と規定し、それを否定して自主独立の日本をつくることを目標にあげた。それゆえ、俗に民族派学生運動と呼ばれている。日学同はその後分裂したりして、1970年代初めには影響力を失った。

一方、全国学協のほうは、当初は早大の右翼学生が中心となっていたが、やがて長崎大学に中心が移り、また、地方の国立大学にも影響力を広げていった。この団体の特徴は、宗教団体生長の家の信者たちが運動を担っているということであった。成長の家は、戦前大本教から分離して、天皇中心の超国家主義を掲げていた。皇国主義といってもよい。そうした極めてイデオロギー色の強い運動体というのは、日本の右翼の歴史のなかで特異なこととはいえないが、ただ、右翼というもののイメージが従来局所的な広がりしか持たなかったのに対して、この運動は、庶民への浸透を追求した。今日「日本会議」と呼ばれる団体の中心メンバーは、いずれも全国学協出身の成長の家元信者である。なお、成長の家自身は、先代教祖谷口雅春が死んだあとは、政治的な活動からは離れていると主張している。

日学同にせよ全国学協にせよ、学生運動としての存在意義は、左翼への対抗ということにあったので、70年安保後に左翼の運動が退潮すると、右翼としての存在意義も失われていった。これは学生右翼に限ったことではなく、右翼全般にも指摘できることであった。1970年に作家の三島由紀夫が派手な自殺騒ぎを演じ、右翼に反省をせまったものだが、それにまともに答えるものはなかった。

その三島の自殺にもっとも大きな衝撃を感じたのは、日学同や全国学協の形成にかかわった鈴木邦男である。鈴木邦男は後にユニークな右翼団体「一心会」を主催するようになる。その会の理念は、三島の死を生かすということにあったと鈴木自身語っている。

三島とならんで鈴木が敬愛する右翼に野村秋介がいる。野村は一殺主義のテロリストといってよいが、かれの持つ滅びの美学のようなものが、鈴木の右翼的な心情を刺激するらしい。

その鈴木邦男自身も、親の世代からの成長の家信者である。成長の家信者は、後に日本会議を主導するメンバーの中核となるので、日本の新しい右翼を代表する者らである。成長の家は、皇国主義に基づいた天皇信仰を打ち出すことで、古い世代の右翼と結び付いていたが、民族主義を草の根レベルで拡大する一方、政治権力と密接に結びつこうとする傾向をもっていた。もっともいまでは会として政治活動はしていないと表明しており、あくまでも、かつての信者が日本の新たな右翼運動を担っているということである。

なお、鈴木は新右翼のチャンピオンのような存在として、メディアにもてはやされてはいるが、じっさいには右翼のなかで煙たがられており、かならずしも新たな日本の右翼を代表しているとはいえないようである。かれの主張にインパクトがあるのは、対米自立を公然ととなえ、時には保守政権を厳しく批判することに理由がある。かれは、右翼仲間よりは、左翼の論客との間に相性がいいようである。


HOME日本の右翼 次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2022
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである