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敗戦後の右翼の追放と復活:日本の右翼


敗戦後、日本に進駐したGHQは、日本の戦争指導者やその協力者を対象に一連の措置をとった。まず東条英機や近衛文麿を最高戦争指導者として戦犯指定し、逮捕した。ついで、戦争遂行体制に多大な役割を果たした右翼も責任を追及され、次々と逮捕状が出された。右翼の大物について言えば、鹿子木員信、児玉誉志夫、笹川良一、大川周明、徳富猪一郎ら、その数60人ほどに及んだ。児玉は、終戦の直後に成立した東久邇内閣の内閣参与として迎えられたほどの政治力をもっていたが、GHQの眼には、許しがたい軍国主義者として映ったのである。

GHQはまた、神道指令を発し、国家神道の政治からの分離を実現した。国家神道は、天皇性を支えるイデオロギーであったから、その影響力の排除は、日本の民主化にとって不可欠なものと思念された。こうした一連の動きに、日本の主な右翼団体は、ほとんど抵抗らしき動きを見せていない。一部の右翼に、徹底抗戦の動きがあったことは、前稿で触れたとおりだが、その社会的影響力は無視できるものであった。

1946年1月4日には、戦争責任追及の総仕上げというべき公職追放令及び右翼の解散令が出された。これにより、およそ21万人が公職追放の対象となり、また右翼の解散・追放も233団体、約5万人にのぼった。解散を命じられた主な右翼団体は以下のとおりである。大日本一新会(旧大日本生産党)、大日本興亜連盟(水野錬太郎らによる思想統制団体)、大東塾(影山正治)、言論報国会(鹿子木らによる自主的言論協力団体)、金鶏学院(安岡正篤)、国際反共連盟(平沼麒一郎)、国粋大衆党(笹川良一)、東亜連盟(石原莞爾)、東方同志会(故中野正剛)。

これらの処置によって、既成右翼は大きな打撃を受け、しばらくの間、活動の停止を余儀なくされた。かれらが公然と復活するのは、1950年代の半ばごろだが、それまでの間は、任侠系の団体が右翼の穴を埋めた。そうした任侠系団体には、山口組などの暴力団やテキヤの団体も含まれ、今日にいたるまで右翼との強い結びつきを続けている。

右翼の復活は意外と早くやってきた。それには国際情勢の変化と、それをふまえたアメリカの対日政策の変更があった。1950年ごろから、いわゆる冷戦が本格化した。朝鮮戦争の勃発は冷戦が熱い衝突に発展したものだった。アメリカは、日本を自分の陣営に引き入れるために多くの努力をしたのだったが、それがいわゆる戦後の逆コースの動きをもたらした。逆コースとは、敗戦後の行き過ぎた民主化を抑え、日本の既成の権力を強化することを目的としたものだった。その目的を果たすために、追放解除が行われるのと並行して、過激派の排除を目的としたレッド・パージの嵐が吹き荒れた。

追放解除は、サンフランシスコ講和会議に先立つ1950年10月にまずなされた。それに伴なって、1万人の大量追放解除が行われた。その後1951年末までに、21万人にのぼった追放者のほとんどが追放を解除された。岸信介などは、すでに1948年12月に、東条らが吊るされた直後に釈放されていたが、正式に追放解除が成立したのは、サンフランシスコ条約が発効した1952年4月のことである。

右翼も同様に次々と追放解除された。解散・追放の解除を受けた右翼団体は、それぞれ戦前の姿に復活しようとした。最大の右翼団体大日本生産党についていえば、これは玄洋社・黒龍会の衣鉢をつぐ団体であったが、戦時中は大日本一新会と名乗っていた。1954年6月に再建され、綱領には、完全独立、アジアの自主的大同、世界の絶対平和などをうたっていた。逆コースが進行しているとはいえ、国民の間には、平和と自由を求める気風が支配していて、右翼団体といえども、それを無視できなかったといえよう。

その他、東亜連盟の後身共和党が1951年8月に結成され、天皇中心主義とデモクラチックな統制主義を標榜した。また大東塾は、1954年に再建され、天皇を中心とした神政維新の実現を目標にかかげた。再建された右翼にほぼ共通する主張を簡単にいうと、「自主憲法、再軍備、反ソ反共、北方領土回復、日教組撲滅」といったものであった。

そのようにして復活した右翼を、反動的政治家たちは利用した。とくに岸信介は、公職法反対や安保反対闘争など、たかまる政治的抵抗の動きを抑え込むために右翼の暴力を積極的に利用した。政治権力と結び付いた右翼はますます勢いづいて、単なる失地回復にとどまらず、日本政治への影響力を高める方向をめざした。そのため、右翼勢力を糾合する動きがみられた。1959年4月に、佐郷屋嘉昭(濱口首相暗殺未遂犯)が中心となって結成された全日本愛国者団体会議(全愛会議)はそのもっとも大規模なものであり、この団体は今日にいたるまで活動を続けてきている。

これらの右翼団体の活動としてもっとも華々しいのは、安保闘争の盛り上がる中で、アメリカ大統領アイゼンハワーの来日を成功させたいとする岸内閣への暴力を伴った協力活動である。岸内閣は、アイゼンハワー訪日を成功させるために、右翼暴力団を大量動員して、岸内閣に反抗する勢力の動きを封じ込めようとしたのである。その際に動員された右翼は、約2万人といわれる。


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