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昭和の右翼テロ:日本の右翼その六


日本の右翼運動は、昭和に入ると俄然先鋭化する。玄洋社や黒龍会といった伝統的な右翼に代わって、新たな行動右翼が台頭し、公然とテロを行うようになる。井上日召が中心となった血盟団事件はその代表的なものだ。昭和の右翼は血盟団のような民間の運動にとどまらず、軍部の中にも深く根をはっていった。5・15事件は、日本軍国主義の台頭をもたらした事件だが、それには民間の右翼と軍部内の右翼勢力との密接な連携があった。その5.15事件と、それに前後した血盟団事件や満州事変は、まったくバラバラに行われたように見えるが、真相においては強く結びついていたのである。

日本近・現代史の主流の見方では、軍部内の軍事ファシズム運動と民間の右翼運動は、一応別のものとして、相互に関連づけられることなく語られることが多い。だが、よく見るとその両者には深い関連が指摘できる。思想的にも、運動の方向性においてもだ。思想的には、北一輝とか大川周明といった在野の右翼の思想と、5.15事件や2.26事件を起こした軍人たちの思想とに強い親近性を認めることができる。その最大公約数的なものは、大アジア主義といったもので、これは日本の対外侵略を合理化するための議論であった。行動的には、軍部内のファシスト勢力も民間右翼も、暴力テロによって権力中枢を惑乱させ、自分たちが権力を握って、新しい日本を作ることをめざした。そうしたかれらの運動は、昭和維新という言葉によって象徴される。昭和維新とは、腐敗堕落した日本社会を立て直して、天皇を中心とした万民平等の社会を実現しようとする運動であり、それがやがて日本の全体主義へと発展していくわけである。

昭和六年(1931)9月に勃発した満州事変、昭和七年(1932)二月に始まる一連のテロ血盟団事件、昭和七年(1932)の5・15事件は、それぞれ孤立した事件ではなく、互いに密接な関係をもっていた。血盟団事件を除く二つの事件は、軍人がおこしたものだが、その軍人たちと血盟団事件の首領井上日召との間には深い関係があったし、また大川周明といった民間の右翼も、深いかかわりを持っていた。その関わりの分析から浮かび上がってくるのは、これらの事件が、ある一つの意思によって計画されていたということだ。その計画とは、関東軍の参謀石原莞爾を中心とした軍部内のファッショ勢力が満州事変を起して軍部を対外侵略に踏み込ませ、それに呼応する形で国内でクーデターを起こし、それに民間のテロを組み合わせて権力を惑乱し、一気に政治権力を掌握して、昭和維新を完遂しようというものだった。

こうした動きの中心には、石原莞爾、北一輝、大川周明、井上日召といった新しいタイプの右翼がいた。最も影響力の強かったのは、軍部内に足がかりをもつ石原莞爾だった。石原には、不思議なところがあって、いざというときに尻込みする傾向が指摘できるのだが、満洲事変を引き起こすほどの度量があったわけだから、やはりこの時代の右翼運動の花形といってよいのではないか。軍部内の運動は、とかく民間の右翼運動とは切り離して論じられることが多いが、実体としては、思想的にも行動的にも、両者には密接な関係があったのである。

石原が満州事変を起してから、5.15事件がおきるまでには、半年以上の時間が経過している。石原の心づもりでは、対外的な満洲事変と国内の軍事クーデタとを同時にひき起こして、一気に権力を掌握するはずだった。だが、満州事変直後に計画された十月事件や、年をまたいで計画された三月事件がとん挫したりして、国内クーデタの実現までにはかなりの時間を要してしまった。その間に、民間人による右翼テロ血盟団事件が世間の耳目を集めたりした。やっと5.15事件というかたちで、軍事クーデタの実現をみたが、これは首謀者たちのずさんな計画や幼稚な行動のために、クーデタ勢力が権力を獲得するには至らなかった。だが、世論の沸騰を呼びおこしたりして、日本を軍国主義に向かって進撃させるだけのモメントとはなった。以後日本の軍部は、2.26事件を経て統制派が権力を掌握し、かれらが日本を世界大戦に向かって動かしていくのである。

そんなわけであるから、昭和初期から敗戦に至るまでの日本の右翼運動は、軍部内のファッショ勢力と民間の新しいタイプの右翼との共同であったと見る視点が必要である。かれらを結びつけたのは、昭和維新の理念である。それは二つの柱からなっている。一つは天皇を中心とした家族的国家観であり、もう一つはアジア主義というかたちの対外侵略路線だった。その昭和維新の思想に理論的な根拠を提供したのが、主に北一輝と大川周明である。北一輝は、独特の国家社会主義思想を打ち出して、日本社会の全体主義的統制という理想を根拠づけたし、大川周明は、大アジア主義を唱えて、日本の軍事的な海外進出に理屈上の根拠を与えたのであった。

もっとも、玄洋社とか黒龍会といった伝統右翼の出番がなくなったわけではない。北一輝や大川周明は玄洋社や黒龍会と密接なかかわりがあったし、また、玄洋社からは、社員だった広田弘毅が2.26事件直後に内閣総理大臣になるなど、一定の政治力を持ち得ていた。昭和天皇は、玄洋社出身の広田を総理大臣にすることを躊躇したといわれる。


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