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大正期の右翼の動向:日本の右翼その五


日本近代史における大正期の位置づけにはさまざまな見方がある。司馬遼太郎のように、日本近代史を明治と昭和で代表させ、明るい明治と暗い昭和といった対立軸を前面に押し出して、大正期をほとんど無視する見方がある一方、いわゆる大正デモクラシーや文化的な多様化の動きをもとに、新たな可能性をはらんだ時代だったと積極的に評価する見方もある。

こと右翼に限って言えば、あまり派手な動きはない。あいかわらず玄洋社とか黒龍会といった既存の右翼が幅をきかせていたし、国論を二分するような大きな政治問題もないといってよかったので、右翼の動向も比較的落ち着いたものだった。大正期は日本の国力が高まって海外進出の野望をむき出しにする一方、国内的には大正デモクラシーの動きに押されて、政治の民主化への民衆の圧力が高まった。大正十四年(1925)に制定された普通選挙法はその象徴的な成果だった。

この時期における日本の右翼の動向を簡単に説明すると、国内的には民主化への敵対、対外的にはアジアの革命勢力との連帯の動きが目立つということになる。とくに後者の動きは、孫文の革命運動に対する玄洋社や黒龍会の援助、またインドの革命家への援助などの形であらわれた。

最初に孫文とかかわりを持った日本人は宮崎滔天である。宮崎は肥後の郷士の出身で、頭山と同じく自由民権運動から出発し、やがてアジア主義を奉じるようになった。宮崎のアジア主義は、日本がアジアの盟主となって、中国等アジアの国々と協力して欧米の侵略に対抗しようというものだった。その点では、頭山のアジア主義と似通う点が多かった。その宮崎が、明治三十年(1897)に、日本に立ち寄った孫文と接触し、以来孫文の革命運動を支援するようになる。宮崎は孫文にアジア主義の同志を見出したのである。その宮崎が孫文を頭山に紹介し、頭山もまた孫文の革命運動を援助するようになる。

周知のとおり、孫文は辛亥革命(1911年)が成功するや一時革命政府の臨時大総統になったが、すぐにその地位を袁世凱に譲った。袁世凱はその後実力を養い、やがて中国皇帝に昇り詰めていく。袁世凱と対立関係にあった孫文は、日本への亡命を余儀なくされ、1913年8月から1916年5月まで、三年近くのあいだ日本に潜伏した。その間頭山や宮崎が孫文の面倒を見た。孫文が宋慶鈴と結婚するのは、この日本潜伏中のことである。

頭山や宮崎が孫文を援助したのは、ともにアジア主義を掲げて欧米に対抗するという目的からであって、中国の自立的な発展に賛同したからではない。だから、たとえば満蒙問題については、これを中国人にまかせるのではなく、日本が支配すべきだという考えをもっていた。いわば同舟異夢の関係にあったわけである。

頭山らはまたインド人の対英独立運動家らをも支援した。大正四年(1915)、インドからラース・ビハーリー・ボースが日本に亡命してくると、チャンドラ・グプタともども、新宿の中村屋にかくまった。グプタはその後、中村屋を脱出して大川周明に匿われるが、ボースに対しては以後長い庇護をあたえた。ボース自身は、インド独立に決定的な役割を果たしたわけではないが、日本の右翼がインドの独立運動を援助したものとして、日本近代史の一幕を飾るものである。

大正期の日本の外交問題のなかで重要な意義をもつのは、ワシントン会議である。これは大正十年(1921)十一月から翌年二月にかけて催された国際会議で、第一次大戦後の新たな世界秩序の形成を目指していた。その秩序とは、新興国の日本の軍事力を制限して、欧米主体の秩序をめざすものだと日本では受け取られた。この会議に並行する形で、アメリカでは排日運動が高まっていたこともあって、日本では強烈な反米意識が醸成された。それをもっとも尖鋭に煽ったのは、頭山満ら右翼の連中だった。頭山らは、相も変わらずアジア主義を掲げ、アジアの諸国が手を結んで欧米の暴虐に立ち向かうべきだとの主張を叫んだ。アジア主義は、一方では欧米帝国主義への対抗理念であるとともに、日本のアジア侵略の旗印になっていったのである。

内政に目を向けると、大正十四年(1925)に普通選挙法が制定されたことが、右翼には大きな衝撃となった。頭山ら右翼は、天皇を中心とした家族国家観を抱いており、家族を国の基本単位として重視していた。したがって、選挙権を拡大する場合には、個人にではなく家族を単位に考え、家長に選挙権を付与すべきだと主張した。


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