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浅茅が宿(五):雨月物語


 勝四郎、翁が高齡をことぶきて、次に京に行きて心ならずも逗まりしより、前夜のあやしきまでを詳にかたりて、翁が塚を築きて祭り玉ふ恩のかたじけなきを告げつゝも涙とゞめがたし。翁いふ。吾主遠くゆき玉ひて後は、夏の比より干戈を揮ひ出て、里人は所々に遁れ、弱き者どもは軍民に召さるゝほどに、桑田にはかに狐兎の叢となる。只烈婦のみ主が秋を約ひ玉ふを守りて、家を出で玉はず。翁も又足蹇ぎて百歩を難しとすれば、深く閉じこもりて出でず。一旦樹神などいふおそろしき鬼の栖所となりたりしを、幼き女子の矢武におはするぞ。老が物見たる中のあはれなりし。秋去り春來りて、其の年の八月十日といふに死に玉ふ。惆しさのあまりに、老が手づから土を運びて柩を藏め、其の終焉に殘し玉ひし筆の跡を塚のしるしとして、みづむけの祭りも心ばかりにものしけるが、翁もとより筆とる事をしもしらねば、其の月日を紀す事もえせず。寺院遠ければ贈号を求むる方もなくて、五とせを過し侍るなり。今の物がたりを聞くに、必づ烈婦の魂の來り給ひて、舊しき恨みを聞え玉ふなるべし。復びかしこに行きて念比にとふらひ給へとて、杖を曳きて前に立ち、相ともに塚のまへに俯して聲を放ちて歎きつゝも、其の夜はそこに念佛して明かしける。

 寢られぬまゝに翁かたりていふ。翁が祖父の其の祖父すらも生れぬはるかの徃古の事よ。此の郷に眞間の手兒女といふいと美しき娘子ありけり。家貧しければ身には麻衣に青衿つけて、髪だも梳らず、履だも穿かずてあれど、面は望の夜の月のごと、笑めば花の艶ふがごと、綾錦に裹める京女臈にも勝りたれとて、この里人はもとより、京の防人等、國の隣の人までも、言をよせて戀慕ばざるはなかりしを、手兒女物うき事に思ひ沈みつゝ、おほくの人の心に報ひすとて、此の浦囘の波に身を投げしことを、世の哀れなる例とて、いにしへの人は歌にもよみ玉ひてかたり傳へしを、翁が稚かりしときに、母のおもしろく話り玉ふをさへ、いと哀れなることに聞きしを、此の亡人の心は昔の手兒女がをさなき心に幾らをかまさりて悲しかりけんと、かたるかたる涙さしぐみてとゞめかぬるぞ、老は物えこらへぬなりけり。勝四郎が悲しみはいふべくもなし。此の物がたりを聞きて、おもふあまりを田舎人の口鈍くもよみける
   いにしへの眞間の手兒奈をかくばかり戀てしあらん眞間のてごなを

 思ふ心のはしばかりをもえいはぬぞ、よくいふ人の心にもまさりてあはれなりとやいはん。かの國にしばしばかよふ一商人の聞き傳へてかたりけるなりき


(現代語訳)
勝四郎は老人の長寿を祝福して、京に行って心ならずそこに留まったいきさつから前夜の不思議なことがらまで詳しく語り、老人が妻のために塚を築いて供養してくれたことに感謝の言葉を述べ涙を流した。老人は答えて言った。「そなたが遠くへ行きなさったあとは、夏の頃から戦いが始まり、里人は方々へ逃げ去り、若者は兵士に徴集されて、桑田はにわかに叢となった。ただそなたの妻のみは、秋までというそなたとの約束を守って、家を去らなかった。わしも足が悪くて百歩も歩けない有様だったので、家に深く閉じこもっていた。すぐに樹神などという恐ろしい鬼の住処と化したにかかわらず、かよわい女の身にしてけなげなことであった。老いの目にも哀れに映ったものじゃが、秋が去って春が来り、その年の八月十日という日に亡くなった。あまりにかわいそうなので、わしが自分の手で土を掘って棺を納め、その終焉に際して残された筆の跡を塚のしるしとして、水むけの祭も心ばかりにしてあげたが、わしは文字を知らぬので、死んだ月日を記すこともできなんだ。寺は遠いので戒名ももらえないまま、五年が過ぎてしまった。いまのそなたの話を聞いいたところ、きっとそなたの妻の魂があらわれて、久しい恨み言を述べたのであろう。もう一度そこに行って、ねんごろに弔いなされ」。そう言って老人は杖を曳いて先にたち、二人で塚の前に赴いて、声を上げて嘆きつつ、その夜はそこで念仏しながら明かしたのだった。

眠られぬまま、老人が語って言った。「わしの遠い先祖が生まれぬはるか前の往古のことよ。この里に真間の手児奈という美しい乙女が住んでいた。家が貧しかったので身には麻衣に青衿をつけ、髪もくしけずらず、履も履いていなかったが、顔は満月のようで、笑えば花が匂うかのよう、綾錦を着た京女臈よりすばらしいと、この里の人はもとより、京の防人や隣国の人びとまで、言葉を寄せて誘惑したものだが、手児奈はそのことを心苦しく思い、いっそ死んで多くの人の好意に報いたいと、この浦に身を投げて死んでしまった。それを哀れに思った古の人が、歌に読んで語り伝えてきたのを、わしのまだ幼かった頃に、母親がおもしろく話し聞かせてくれたので、わしも哀れに思ったことじゃが、そなたの妻の心は、昔の手児奈の心に比べてもなおいっそう悲しかったことじゃろう」と、語る語る涙を流し続けたのだった。それは老人がこらえ性がないためでもあった。勝四郎の悲しみはいうまでもない。この話を聞いて、思いのたけを田舎者らしい口調で歌に読んだのだった。
  いにしへの眞間の手兒奈をかくばかり戀てしあらん眞間のてごなを

思っていることの一端をも言えないでいるが、言葉巧みな人にもまさって哀れな歌と言うべきだろうか。以上は、かの下総の国によく通っている行商人から聞いた話である。


(解説)
老人は、勝四郎が京へ去ってから、宮木が死ぬまでのいきさつを詳しく語ってくれた。宮木が死んだ後、彼女のために塚を築き、供え物をしたのは老人自身だった。二人は方をならべて宮木の塚に参り、その前で念仏を唱えながら一夜を明かす。

老人は寝物語に土地の伝説を語る。それは真間の手古奈といって、この里に住んでいた乙女の話で、万葉集にも載っている伝説だ。

秋成がなぜここで手古奈伝説を持ち出したのか、その意図がよくわからぬ。手古奈は、複数の男に言い寄られた乙女が、わが身の罪深さを嘆いて自殺する話だ。対して宮木は、夫を待ちわびて死んでいった女である。二人はストレートに対応しないのだが、そこを不幸にして死んだ女ということで、無理に対応させたのだろうか。


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