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菊花の約(四):雨月物語


 左門いふ。井臼の力はもてなすに足らざれども、己が心なり。いやしみ玉ふことなかれ。赤穴猶答へもせで、長嘘をつぎつゝ、しばししていふ。賢弟が信ある饗應をなどいなむべきことわりやあらん。欺くに詞なければ、実をもて告ぐるなり。必ずしもあやしみ給ひそ。吾は陽世<うつせみ>の人にあらず。きたなき靈のかりに形を見えつるなり。

 左門大いに驚きて、兄長何ゆゑにこのあやしきをかたり出で玉ふや。更に夢ともおぼえ侍らず。赤穴いふ。賢弟とわかれて國にくだりしが、國人大かた經久が勢ひに服きて、塩冶の恩を顧るものなし。從弟なる赤穴丹治冨田の城にあるを訪らひしに、利害を説きて吾を經久に見えしむ。假に其詞を容れて、つらつら經久がなす所を見るに、萬夫の雄人に勝れ、よく士卒を習練すといへども、智を用うるに狐疑の心おほくして、腹心爪牙の家の子なし。永く居りて益なきを思ひて、賢弟が菊花の約あることをかたりて去らんとすれば、經久怨める色ありて、丹治に令し、吾を大城の外にはなたずして、遂にけふにいたらしむ。 

 此の約にたがふものならば、賢弟吾を何ものとかせんと、ひたすら思ひ沈めども遁るゝに方なし。いにしへの人のいふ。人一日に千里をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆくと。此のことわりを思ひ出て、みづから刄に伏し、今夜陰風に乘てはるばる來り菊花の約に赴く。この心をあはれみ玉へといひをはりて、泪わき出づるが如し。今は永きわかれなり。只母公によくつかへ給へとて、座を立つと見しが、かき消えて見えずなりにける。

 左門慌忙<あわて>とどめんとすれば、陰風に眼くらみて行方をしらず。俯向につまづき倒れたるまゝに、聲を放ちて大いに哭く。老母目さめ驚き立ちて、左門がある所を見れば、座上に酒瓶魚盛りたる皿どもあまた列べたるが中に臥倒れたるを、いそがはしく扶け起して、いかにととへども、只聲を呑みて泣々さらに言なし。

 老母問ひていふ。伯氏赤穴が約にたがふを怨むるとならば、明日なんもし來るには言なからんものを。汝かくまでをさなくも愚かなるかとつよく諌るに、左門漸答へていふ。兄長今夜菊花の約に恃來る。酒肴をもて迎ふるに、再三辞み玉ふて云ふ。しかしかのやうにて約に背くがゆゑに、自刄に伏して陰魂百里を來るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母の眠をも驚かしたてまつれ。只々赦し玉へとさめざめと哭き入るを、老母いふ。牢裏に繋がるゝ人は夢にも赦さるゝを見え、渇するものは夢に漿水を飮むといへり。汝も又さる類にやあらん。よく心を靜むべしとあれども、左門頭を搖りて、まことに夢の正なきにあらず。兄長はこゝもとにこそありつれと、又聲を放げて哭き倒る。老母も今は疑はず。相叫びて其の夜は哭きあかしぬ。


(現代語訳)
左門が、「たいした料理ではありませんが、わたしの心ばかりのもてなしです。さげすまずに召し上がってください」と言うと、赤穴はなお返事もせずに、ため息をつきながら、しばらくして言った。「そなたの心のこもった料理をなぜさげすむことがありましょう。うそをつけませんので、本当のことを言いましょう。決して驚かないでください。私はこの世のものではないのです。穢れた霊魂が仮の姿をとったものなのです」

左門は大いに驚いて、「兄上は何故そんなおかしなことを言われるのですか、わたしには夢とも思えません」と言うと、穴赤は、「そなたと別れて国へ戻ったが、国のものは大方経久の勢いに服して、塩冶の恩を顧みるものがいない。富田の城にいる従弟の赤穴丹沿を訪ねたところ、利害を説いて私を経久に案内した。とりあえずその言葉を聞いて経久と会い、その挙動を観察したところ、人並み以上の勇気を持ち、士卒をよく訓練していたが、知略をめぐらすに猜疑心が強く、そのため信頼できる腹心がいない。長くいても無益と思って、そなたとの約束があることを理由に辞去しようとしたところが、経久はそれを怨んだようで、丹沿に命じて私を城に監禁し、ついに今日になった。

「約束を破ったなら、そなたがどう思うだろうかと、ひたすら思い悩んだが、逃れることができぬ。古の人は、人は一日に千里を行くことは出来ぬが、魂なら一日に千里をも行く、と言った、その諺を思い出して、自ら刃に伏して命を絶ち魂となって、約束を果たすために今夜風に乗ってはるばるやって来たのじゃ、この心を哀れと思ってくれ」と言い終え、沸き出るような涙を流した。ついで、「今こそは長き別れ、ただ母上によく仕えたまえ」と言いながら、座を立とうとするように見えたが、そのまま掻き消えて見えなくなってしまった。

左門はあわててひき止めようとしたが、陰風に目がくらんで行方を見失い、仰向けにつまづき倒れたまま、声を上げて大いに嘆き悲しんだ。老母が驚いて目を覚まし、左門の居るところを見れば、座上に酒瓶や料理を盛った皿を多く並べた中に倒れている。急いで助け起こし、どうしたのだと訪ねたが、左門はただ声を呑んで泣くばかりだった。

老母は左門に向かって、「あの赤穴さんが約束を破ったのを怨んでいるのなら、明日もしもやってきたら、言葉もないでしょうに。お前はそんなにも未熟で馬鹿ものなのか」と強く諌めた。左門はようやくそれに応えて、「兄上は今夜菊花の約束どおりに参られました。酒肴をもってお迎えするに、再三辞退されておっしゃるには、しかじかの理由で約束に背くことになったので、自ら刃に伏して霊となり一夜に百里をやってきたのだ、といって見えなくなりました。それで母上が寝ておられるところをお騒がせした次第、ただただお許しください」と言ってさめざめと泣き入った。老母は、「牢につながれた人は許されることを夢に見、渇するものは水を飲むところを夢に見るというが、おまえもそれと同じなのだろう。よく心を静めなさい」と言う。左門は頭をゆすって、「ほんとに夢のように取り留めのないことではないのです。兄上はたしかにここにおられたのです」と言って、また声を上げて泣き崩れた。老母もそれを聞いて今は疑わず、左門とともに叫びあいながら夜を泣き明かしたのだった。


(解説)
赤穴宗右衛門は左門に向かって、別れてからいままでのことを振り返って話す。国許についたあと従兄弟の赤穴丹沿とともに尼子経久に面会したこと、その器の小さいことを知って去ろうとしたところ捕らえられて幽閉されたこと、左門との約束を果たすために、死んで魂となり、一日に千里をやって来たことなどである。その話を聞いた左門は、宗右衛門が何故匂いを忌み避けたか、その理由に納得する。

この段のポイントは、赤穴が左門との約束を守ることにいかに拘ったかを強調することにある。

人が死んで霊となり、一日に千里を走るという発想は原作のものであるが、人間同士の約束の大切さを強調するところには、秋成自身の価値観も働いていると言える。


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