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白峰(三):雨月物語を読む


 院、長嘘<ながいき>をつがせ玉ひ、今事を正して罪をとふ、ことわりなきにあらず。されどいかにせん。この嶋に謫れて、高遠が松山の家に困められ、日に三たびの御膳すゝむるよりは、まいりつかふる者もなし。只天とぶ鴈の小夜の枕におとづるゝを聞けば、都にや行くらんとなつかしく、曉の千鳥の洲畸にさわぐも、心をくだく種となる。烏の頭は白くなるとも、都には還るべき期もあらねば、定めて海畔の鬼とならんずらん。ひたすら後世のためにとて、五部の大乘經をうつしてけるが、貝鐘の音も聞えぬ荒磯にとどめんもかなし。せめては筆の跡ばかりを洛の中に入れさせ玉へと、仁和寺の御室の許へ、經にそへてよみておくりける
  濱千鳥跡はみやこにかよへども身は松山に音をのみぞ鳴く
しかるに少納言信西がはからひとして、若咒咀<もしじゆそ>の心にやと奏しけるより、そがまゝにかへされしぞうらみなれ。

 いにしへより倭漢土ともに、國をあらそひて兄弟敵となりし例は珍しからねど、罪深き事かなと思ふより、惡心懺悔の為にとて写しぬる御經なるを、いかにさゝふる者ありとも、親しきを議るべき令にもたがひて、筆の跡だも納れ玉はぬ叡慮こそ、今は舊しき讐なるかな。所詮此經を魔道に囘向して、恨をはるかさんと、一すぢにおもひ定めて、指を破り血をもて願文をうつし、經とゝもに志戸の海に沈めてし後は、人にも見えず深く閉じこもりて、ひとへに魔王となるべき大願をちかひしが、はた平治の乱ぞ出できぬる。

 まづ信頼が高き位を望む驕慢の心をさそふて義朝をかたらはしむ。かの義朝こそ惡き敵なれ。父の為義をはじめ、同胞の武士は皆朕がために命を捨てしに、他一人朕に弓を挽く。為朝が勇猛、為義忠政が軍配に贏目を見つるに、西南の風に燒討せられ、白川の宮を出しより、如意が嶽の嶮しきに足を破られ、或は山賎の椎柴をおほひて雨露を凌ぎ、終に擒はれて此の嶋に謫られしまで、皆義朝が姦しき計策に困められしなり。これが報ひを虎狼の心に障化して、信頼が隱謀にかたらはせしかば、地祇に逆ふ罪、武に賢からぬ清盛に遂討たる。且父の為義を弑せし報せまりて、家の子に謀られしは、天神の祟を蒙りしものよ。

 又少納言信西は、常に己を博士ぶりて、人を拒む心の直からぬ、これをさそふて信頼義朝が讐となせしかば、終に家をすてゝ宇治山の坑に竄れしを、はた探し獲られて六条河原に梟首らる。これ經をかへせし諛言の罪を治めしなり。それがあまり應保の夏は美福門院が命を窮り、長寛の春は忠通を祟りて、朕も其秋世をさりしかど、猶嗔火熾にして盡ざるまゝに、終に大魔王となりて、三百余類の巨魁となる。朕がけんぞくのなすところ、人の福を見ては轉して禍とし、世の治るを見ては乱を発さしむ。只清盛が人果大にして、親族氏族ことごとく高き官位につらなり、おのがまゝなる國政を執り行ふといへども、重盛忠義をもて輔くる故いまだ期いたらず。汝見よ。平氏も又久しからじ。雅仁朕につらかりしほどは終に報ふべきぞ、御聲いやましに恐しく聞えけり。西行いふ。君かくまで魔界の惡業につながれて、佛土に億万里を隔て玉へば、ふたゝびいはじとて、只默してむかひ居たりける。


(現代語訳)
院は、長い溜息をつかれて次のように仰せられた。「今そなたが朕の犯した罪をとがめるのももっとものことである。だが如何せん。この島に流されて、高遠の松山の家に閉じ込められ、日に三度食事をすすめる者の他には、参り仕える者もない。ただ空を飛ぶ雁が枕近く訪れるのを聞けば、都に行くのかしらと思えてなつかしく、暁に千鳥の騒ぐ音も心をくだく種とはなる。烏の頭が白くなるとも、朕が都に帰れる日はないのだから、きっとこのまま海畔をさまよう鬼となってしまうのだろう。ひたすら後生のためにと五部の大乘經を写経したが、寺の鐘の音も聞こえぬ荒磯にとどめておくのも悲しい。せめて筆跡だけは都で受け取ってほしいと、仁和寺の御室のもとへ、経と一緒に次のような歌を読んで送った
  濱千鳥跡はみやこにかよへども身は松山に音をのみぞ鳴く
ところが少納言の信西が計らいごとをめぐらし、これはもしかして咒咀がこめられているかもしれぬと奏したために、そのまま返されてきたのは残念なことであった。

「いにしえよりわが国でも漢土でも、国を争って兄弟が敵となった例は珍しくないが、それを罪深いと思って、悪心懺悔のために写経したものを、いかにさまたげる者がいたからとて、帝の近親者は減軽するという勅令に反して、筆跡でさえも受け入れられぬという帝の御心は、今は永久に忘れることのできない恨みである。そこでこの経を魔道に回向して、恨みを晴らさんと、一筋に思い定めて、指を切って血で願文を書き、それを経とともに志戸の海に沈めて後は、人目を避けて深く閉じこもり、ひとえに魔王となるべき大願を誓っていた。するとその願いがかなって平治の乱が起った。

「まず、信頼の高位を望む驕慢の心をそそのかし、義朝を信頼の味方につけさせた。この義朝こそ憎い敵である。(保元の乱では)父の為義を始め、兄弟の武士たちは皆朕のために命を捨てたのに、彼ひとり朕に弓を引いた。為朝の勇猛、為義・忠政の軍配で勝ち目が見えていたのに、西南の風に乗じて焼き討ちされ、白川の宮を脱出して、如意が嶽の険しい山道に足をとられ、或は山賎の椎柴を被って雨露をしのぎ、遂には囚われてこの島に流されるまで、みな義朝の小賢しい計略に苦しめられたのである。この仕返しに、義朝の心を虎狼のそれに変じさせ、信頼の陰謀に加担させたので、地祇に逆らう罪の酬いとして、武に劣る清盛に討たれたのだ。かつ父の為義を殺した酬いで、家の子に謀殺されたのは、天神の祟りを蒙ったものである。

「また、少納言の信西は、常に自分を博士ぶって、人を受け入れぬ高慢な者であったから、これをそそのかして信頼・義朝の敵としたので、遂には家を捨てて宇治の穴に隠れるはめになったが、そこを探しとられて六畳河原で首を切られた。これは経を朕に送り返させるにいたった讒言の酬いである。その上、應保の夏には美福門院の命を縮め、長寛の春には忠通を祟り殺して、朕もその秋には死んだ。そこで怒りの火の尽きざるままに、遂に大魔王となり、三百余類の巨魁となった。朕の眷属のなすところは、人の福を見ては災いと化し、世が収まるのを見ては乱を起こさせる。ただ清盛は、果報が大きく、親族氏族ことごとく高位につらなり、自分の望みどおりに国政を執り行っているが、重盛が忠義を以て支えているのでまだ滅亡の時期が至らない。汝見よ、平氏もまた久しからじ。雅仁が朕に辛く当たっている間は、ついに酬いを受けさせてやる」。そういう院の声がますます恐ろしく聞こえた。西行はそれに答えて、「君かくまで魔界の悪行につながれて、仏土に遠く隔たっておられるからには、再び口をきくことはいたしますまい」と言いながら、ただ沈黙して院に向かい合っていたのであった。


(解説)
崇徳院は西行に向かって、自分の恨みの原因となった生前の出来事について回想する。ここでこの物語の理解の資料として、崇徳天皇の生涯について簡単に触れておこう。

崇徳院は、鳥羽天皇の譲位によって皇位についたが、まもなくして鳥羽天皇が美福門院に産ませた体仁親王に譲位した。これが近衛天皇である。近衛天皇は崇徳院にとっては皇太子ではなく皇太弟だったため、譲位後の崇徳院は慣例に従って上皇となることができなかった。

やがて近衛天皇が十七歳の若さで死ぬと、その後継者として崇徳院の子重仁親王が有力視されたが、美福門院の意気のかかった雅仁親王が即位した(後白河天皇)。こうした経緯を経て、宮中には複雑な人間関係が進行していったのだが、鳥羽天皇の死によってその矛盾が爆発した。保元の乱はその矛盾の現れとして起ったものである。

崇徳院は、保元の乱の敗者として捉えられ、讃岐に流されたあと、四十六歳で死んだ。皇位についた者が配流の憂き目にあったのは、淳仁天皇以来四百年ぶりのことであった。


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