日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




白峰(二):雨月物語を読む


 新院呵々と笑はせ給ひ、汝しらず、近來の世の乱は朕がなす事なり。生きてありし日より魔道にこゝろざしをかたふけて、平治の乱を發さしめ、死して猶朝家に祟りをなす。見よ見よやがて天が下に大乱を生ぜしめんといふ。西行此詔に涙をとどめて、こは淺ましき御こゝろばへをうけ玉はるものかな。君はもとよりも聡明の聞えましませば、王道のことわりはあきらめさせ玉ふ。こゝろみに討ね請すべし。そも保元の御謀叛は天の神の教へ玉ふことわりにも違はじとておぼし立せ玉ふか。又みづからの人慾より計策り玉ふか。詳に告せ玉へと奏す。

 其時院の御けしきかはらせ玉ひ、汝聞け、帝位は人の極なり。若し人道上より乱す則は、天の命に應じ、民の望に順ふて是を伐つ。抑永治の昔、犯せる罪もなきに、父帝の命を恐みて、三歳の體仁に代を禪りし心、人慾深きといふべからず。體仁早世ましては、朕皇子の重仁こそ國しらすべきものをと、朕も人も思ひをりしに、美福門院が妬みにさへられて、四の宮の雅仁に代を簒はれしは深き怨にあらずや。重仁國しらすべき才あり。雅仁何らのうつは物ぞ。人の徳をえらばずも、天が下の事を後宮にかたらひ玉ふは父帝の罪なりし。されど世にあらせ玉ふほどは孝信をまもりて、勤色にも出さゞりしを、崩れさせ玉ひてはいつまでありなんと、武きこゝろざしを發せしなり。臣として君を伐つすら、天に應じ民の望にしたがへば、周八百年の創業となるものを、ましてしるべき位ある身にて、牝鷄の晨する代を取て代らんに、道を失ふといふべからず。汝家を出て佛に婬し、未來解脱の利慾を願ふ心より、人道をもて因果に引入れ、尭舜のをしへを釈門に混じて朕に説くやと、御聲あらゝかに告せ玉ふ。

 西行いよゝ恐るゝ色もなく座をすゝみて、君が告せ玉ふ所は、人道のことわりをかりて慾塵をのがれ玉はず。遠く辰旦をいふまでもあらず。皇朝の昔譽田の天皇、兄の皇子大鷦鷯の王をおきて、季の皇子菟道の王を日嗣の太子となし玉ふ。天皇崩御玉ひては、兄弟相讓りて位に昇り玉はず。三とせをわたりても猶果つべくもあらぬを、菟道の王深く憂ひ玉ひて、豈久しく生きて天が下を煩しめんやとて、みづから寳算を断せ玉ふものから、罷事<やんごと>なくて兄の皇子御位に即せ玉ふ。是天業を重んじ孝悌をまもり、忠をつくして人慾なし。尭舜の道といふなるべし。本朝に儒教を尊みて専ら王道の輔とするは、莵道の王、百濟の王仁を召して学ばせ玉ふをはじめなれば、此兄弟の王の御心ぞ、即漢土の聖の御心ともいふべし。

 又、周の創め武王一たび怒りて天下の民を安くす。臣として君を弑すといふべからず。仁を賊み義を賊む一夫の紂を誅するなりといふ事、孟子といふ書にありと人の傳へに聞き侍る。されば漢土の書は經典史策詩文にいたるまで渡さゞるはなきに、かの孟子の書ばかりいまだ日本に來らず。此書を積て來たる船は、必しも暴き風にあひて沈沒むよしをいへり。それをいかなる故ぞととふに、我國は天照すおほん神の開闢しろしめしゝより、日嗣の大王絶ゆる事なきを、かく口賢しきをしへを傳へなば、末の世に神孫を奪ふて罪なしといふ敵-も出づべしと、八百よろづの神の惡ませ玉ふて、神風を起して船を覆し玉ふと聞く。されば他國の聖の教も、こゝの國土にふさはしからぬことすくなからず。

 且詩にもいはざるや。兄弟牆に鬩<せめ>ぐとも外の悔りを禦げよと。さるを骨肉の愛をわすれ玉ひ、あまさへ一院崩御玉ひて、殯の宮に肌膚もいまだ寒さえさせたまはぬに、御旗なびかせ弓末ふり立て寳祚をあらそひ玉ふは、不孝の罪これより劇しきはあらじ。天下は神器なり。人のわたくしをもて奪ふとも得べからぬことわりなるを、たとへ重仁王の即位は民の仰ぎ望む所なりとも、徳を布き和を施し給はで、道ならぬみわざをもて代を乱し玉ふ則は、きのふまで君を慕ひしも、けふは忽怨敵となりて、本意をも遂げたまはで、いにしへより例なき刑を得玉ひて、かゝる鄙の國の土とならせ玉ふなり。たゞたゞ舊き讐をわすれ玉ふて、淨土にかへらせ玉はんこそ願まほしき叡慮なれと、はゞかることなく奏しける。


(現代語訳)
新院は呵々と笑われ、「お前は知らぬのか、近頃の世の乱れはわが仕業である、生前から魔道の研究にいそしみ、それを以て平治の乱を起こさせ、死んだ後でもなお朝廷に祟りをなしている、見よやがて天下に大乱を生じさせよう」と言う。西行はこの言葉を聞くと、涙を抑えながら、「これはあさましい御心映えをお聞きするものです。君はもとより聡明な方であられる故、王道の理をご存じのはず。試みにお伺いいたします、そもそも保元の乱でのご謀反は天の教えに反しないと思われてなされたのですか、あるいはご自分の人欲からなされたのですか、是非お聞かせください」と申し上げた。

すると院は顔色を変えられて、「汝聞け、帝位は人間としての極みである、もしこれを天子が上から乱す時は、天の命に応じ、人民の望みに従って、これを撃つのが道理である。そもそも永治の昔に、罪を犯したわけでもないのに、父帝の命令を恐れて三歳の體仁に譲位したが、それを見ても朕の欲が深いというべきではない。體仁が亡くなった後は、皇子の重仁が帝位につくべきだと、自分も世間も思っていたのを、美福門院の妬みに妨げられて、四の宮の雅仁に帝位を奪われたのは、深い恨みではないか。重仁には国を治める才能があった、雅仁はその器ではない。人の徳を選ばずに、皇位のことを後宮に相談して決めたのは父帝の過ちであった。だが、父帝が御存命のうちは、孝信を守って、不平を言わなかったが、父帝が亡くなったあとはいつまでそうもしておられず、武き志を起こしたのである。周の武王が、臣下の身で主君をうったのも、天命に応じ民の望みに応えたればこそ、周八百年の基礎を固める偉業となったのだ。まして帝位に相応しい身として、乱れた世をただそうとするのは、道を失っているというべきではない。汝は出家して仏に溺れ、成仏しようとの私利私欲から、人としての道を仏教の因果で説明し、尭舜の教えを仏の教えに混ぜて朕に説くとはけしからぬ」と声を荒げて仰せられた。

西行はいよいよ恐れる様子もなく座を進めて、「君のおっしゃるところは、人道のことわりにかなっているように見えますが、やはり慾塵を逃れておりません。遠く震旦の例をひくまでもありません。我が国の昔においても、応神天皇は兄皇子の大鷦鷯の王をさしおいて、末子の菟道の王を皇太子にしました。応神天皇の亡くなった後、兄弟は譲り合ってどちらも皇位につこうとなさりませんでした。三年経っても譲り合いが終ろうとしないので、弟君の菟道の王が深く憂えられて、生きながらえて天下に災いをなすよりはと、ご自害なされたので、兄君は仕方なく位につかれました。これは、天の摂理を重んじて孝悌をまもり、忠をつくしたのであって、そこには人の欲はありません。尭舜の道だといってもよい。我が国において儒教を尊び、王道の支えとしたのは、莵道の王が百済の王仁を召して学ばれたのが最初ですから、このご兄弟の志こそ、漢土の聖人の志を受け継いだものと言えます。

また、周の創設者の武王は、ひとたび怒って天下の民を安んじました。臣下の身として主君を弑したというべきではありません。仁を軽んじ義にはずれた一人の不心得者である紂を誅しただけだと、孟子という書にもあるそうです。漢土の書で我が国に渡ってこないものはないというのに、この孟子の書だけはまだ渡ってきておりません。この書を積んだ船がことごとく暴風にあって沈んだからだといいます。何故かと言えば、我が国は天照大神による開闢以来、日嗣の大王の絶えることがありませんでしたが、もしもこのようなこざかしい漢土の教えを伝えれば、末世まで皇位を奪うような敵も出て来るだろうと、八百万の神々が心配されて、神風を吹かせて船を沈ませたからだといいます。このように、異国の聖の教えがこの国には相応しくないことが少なからずあるのです。

また、詩経にもあるではないですか。兄弟はたがいに争っても、外からの侮りは協力して防げと。それなのに骨肉の愛を忘れて、そのうえ父君がお亡くなりになり、殯の宮で遺体がまだ冷えないうちに、旗をなびかせ弓を振り絞って争われるとは、不孝の罪これに増すものはないでしょう。天下のことは神の定めたもうところであり、それを私物のように奪うことはできない道理なのに、たとえ重仁王の即位を民が望んでいたとしても、徳を布き和を施さずに、道ならぬはかりごとを以て世を乱したまうので、昨日までは君をお慕い申していても、今日はたちまち敵となられ、しかも本意をとげられずに、前例のない刑を受けられて、かかる辺土の土となられたのです。もはや古い因襲はお忘れになって、浄土に成仏することこそが願わしいことなのです」、と憚ることなく申し上げたのであった。


(解説)
西行の前に現れた崇徳院の亡霊は、西行に向かって生前の恨みを述べ、自分はその恨みを晴らすために、世の中を呪うのだと宣言する。こうした崇徳院の亡霊のあり方は、道真をはじめとする荒ぶる御霊の伝統に乗っていると思われる。こうした御霊を鎮めるために、日本人は古来様々な行事を催してきた。道真の霊を沈めるために道真を天神としてまつったのはその一つの例であるし、京都に伝わる祇園祭もその例である。

崇徳院の荒ぶる怨霊に向かって、西行は仏の教えにもとづいて慰めようとする。これが僧侶である西行にとってはもっとも相応しいやり方だ。だがそれに対して崇徳院の怨霊は納得せず、西行の勧めに従って往生する景色をみせないばかりか、仏の教えを嘲笑する。


HOME古典を読む雨月物語次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである