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蛇性の婬(十):雨月物語


 豐雄いふは、世の諺にも聞ゆることあり。人かならず虎を害する心なけれども、虎、反りて人を傷る意ありとや。なんぢ人ならぬ心より、我を纏ふて幾度かからきめを見するさへあるに、かりそめ言をだにも此の恐しき報ひをなんいふは、いとむくつけなり。されど吾を慕ふ心ははた世人にもかはらざれば、こゝにありて人々の歎き玉はんがいたはし。此の富子が命ひとつたすけよかし。然て我をいづくにも連れゆけといへば、いとうれしげに點頭<うなづき>をる。

 又立ち出でて庄司にむかひ、かう淺ましきものゝ添ひてあれば、こゝにありて人々を苦しめ奉らんはいと心なきことなり。只今暇玉はらば、娘子の命も恙なくおはすべしといふを、庄司更に肯ぜず、我弓の本末をもしりながら、かくいひがひなからんは大宅の人々のおぼす心もはづかし。猶計較<はか>りなん。小松原の道成寺に法海和尚とて貴とき祈りの師おはす。今は老いて室の外にも出でずと聞けど、我が爲にはいかにもいかにも捨て玉はじとて、馬にていそぎ出でたちぬ。道遥かなれば夜なかばかりに蘭若に到る。老和尚眼藏をゐざり出て、此の物がたりを聞きて、そは淺ましくおぼすべし。今は老い朽ちて驗あるべくもおぼえ侍らねど、君が家のわざはひを默してやあらん。まづおはせ。法師も即詣でなんとて、芥子の香にしみたる袈裟とり出でて、庄司にあたへ、かれをやすくすかしよせて、これをもて頭に打ちかづけ、力を出して押しふせ玉へ。手弱くあらばおそらくは迯さらん。よく念じてよくなし玉へと実やかに教ふ。庄司よろこぼひつゝ馬を飛ばしてかへりぬ。

 豐雄を密に招きて、此の事よくしてよとて袈裟をあたふ。豐雄これを懐に隱して閨房にいき、庄司今はいとまたびぬ。いぎたまへ出で立ちなんといふ。いとうれしげにてあるを、此の袈裟とり出でてはやく打ちかづけ、力をきはめて押しふせぬれば、あな苦し、何とてかく情なきぞ、しばしこゝ放せよかしといへど、猶力にまかせて押しふせぬ。法海和尚の輿やがて入り來る。庄司の人々に扶けられてこゝにいたり玉ひ、口のうちつぶつぶと念じ玉ひつゝ、豐雄を退けて、かの袈裟とりて見玉へば、富子は現なく伏したる上に、白き蛇の三尺あまりなる蟠りて動きだもせずてぞある。老和尚これを捉へて、徒弟が捧げたる鉄鉢に納め玉ふ。猶念じ玉へば、屏風の背より、尺ばかりの小蛇はひ出づるを、是をも捉へて鉢に納め玉ひ、かの袈裟をもてよく封じ玉ひ、そがまゝに輿に乘せ玉へば、人々掌をあはせ涙を流して敬まひ奉る。

 蘭若に歸り玉ひて、堂の前を深く堀らせて、鉢のまゝに埋めさせ、永劫があひだ世に出ることを戒しめ玉ふ。今猶蛇が塚ありとかや。庄司が女子はつひに病にそみてむなしくなりぬ。豐雄は命恙なしとなんかたりつたへける。


(現代語訳)
豊雄は言った。「諺にも聞いたことがある。人は虎を害する気持はないのだが、虎のほうでは逆に害する意思があると。お前は人間とは違った気持から、私にまとわりついて何度もひどい目にあわせたうえ、ちょっとした私の言葉からこんな恐ろしい復讐のことをいうとは、たいそう気味がわるい。だが、私を慕う心は人間と変らない。これ以上この家にいて、人々を嘆かせるのは気の毒だ。この富子の命だけは助けてくれ。そしたら私をどこへでも連れてゆきなさい」。そう聞いた真女児はうれしそうにうなづいたのだった。

豊雄はまたそこを出て庄治のところにゆき、「こんな浅ましいものがそばにいて、皆さんを苦しめるのはとても気の毒です。ただいま暇を賜れば、富子の命も助かりましょう」と言うと、庄治は一向に納得せず、「自分は武士の端くれとして、こんなに不甲斐ないのでは、大宅の人々に対してもはずかしい。なお思案してみましょう。小松原の道成寺に、法海和尚という尊い祈祷師がいます。今は年をとって部屋の外にも出ないそうだが、私のためなら見捨てたりはしないでしょう」と言って、馬に乗って急ぎ出立した。遠路だったので、夜半に寺に到着した。老和尚は寝室からいざり出て、庄治の話を聞くと、「それは困ったでしょう。わしは今や老いぼれて効験あるとも思えぬが、そなたの家の災厄を黙って見ておれぬ。まずは帰りなされ。わしもすぐ後からまいる」と言いながら、芥子の香をしみこませた袈裟を取り出して庄治に与え、「あれをだましておびき寄せ、これを頭にかぶせて、力をこめて押し伏せなさい。手加減しては逃げられる。よくよく気合を込めてやりなさい」とまめやかに教えた。庄治は喜びながら馬を飛ばして家に帰った。

庄治は家に着くと豊雄をひそかに呼んで、和尚から言われたことを伝え、うまくやってくれ、と言って袈裟を渡した。豊雄はこれを懐に入れて閨に行き、「庄治がいま暇をくれた、さあ出立しよう」と真女児に言った。そして真女児がうれしそうにしているところを、この袈裟を取り出していち早くかぶせ、力をこめて押し伏せた。真女児は、「ああ、苦しい、なぜこんな情けないことを、ちょっとここを放してください」と言ったが、なお力まかせに押し伏せた。そこへ法海和尚の輿がやって来た。庄司の人々に助けられて閨に入ると、口のうちでぶつぶつ念じながら、豊雄を退けて、あの袈裟をはがして見る。すると富子が呆然として伏している上に、三尺ばかりの白い蛇がうずくまって身じろぎもしないでいた。老和尚はこれを捕らえて、弟子の捧げ持った鉄鉢の中に突っ込んだ。さらに念じると、屏風のうしろから、一尺ばかりの蛇が這い出てきたのを、これも捉えて鉢に突っ込んだ。そしてあの袈裟を鉢にかぶせて封じ、そのまま輿に乗せたので、人々は手を合わせ涙を流して和尚を敬ったのだった。

和尚は寺に戻ると、堂の前を深く掘らせ、そこに蛇どもを鉢のまま埋めさせて、永遠に世の中に出ることのないように戒めた。いまなおその蛇塚があるという。富子はついに病にかかり、命を失ったということだ。豊雄のほうは無事で生きたということである。


(解説)
大団円は、法力によって蛇の妖怪が鉢の中に封じ込まれるという形で終る。同じく法力でも、何故鞍馬寺の僧の力では及ばず、道成寺の僧の力が及んだか、そこは触れられていない。名高い道成寺伝説を持ち出すにあたって、道成寺の僧におまけしたのかもしれない。なお、道成寺伝説では、蛇の本性を現した清姫が、鐘の中に逃げ込んだ安珍を外側から焼き殺すということになっているが、それは蛇である清姫に同情した現れである。その辺は、道成寺伝説にまだ人獣間結婚に対する大らかな気持ちが残っていたことの反映なのだろう。道徳観念の強い秋成には、そのようなことは書けなかったに違いない。

真女児に乗り移られた富子が死んでしまうのは、秋成なりの配慮だろうと指摘される。物の怪が乗りうつるという同じようなテーマを描いた源氏物語の「葵」の章でも、六条御息所の生霊に取り付かれた葵の上は、夕顔を生んだ後に死ぬことになっている。そうすることで、女の立場のバランスを紫式部は図ったわけだが、秋成もその例に倣ったと考えられる。

こんなわけでこの物語も、骨格を中国の白話小説に借りながら、日本的な要素を随所に盛り込んで、陰影に富んだ物語に仕上げられている。


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