三粋人経世問答
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三粋人経世問答:移民政策を語る


無覚先生:どうも、あけましておめでとうございます。わたしの年になると、ひとつづつ年を重ねるのがほんとうにめでたいことのように思えるんです。これから先、自分にいかほどの時が残されているのか、心もとない感覚があって、時間の濃度が段々と薄くなってゆくとはいえ、やはりすこしでも長く生き永らえることに、大きな意義を感じるものです。

静女史:あら、無覚先生はまだそんなことをおっしゃる歳ではないんじゃないですか。いまは人生百年時代といわれるんですもの、まだまだこの先長い時間が残されていますよ。

無覚先生:そういわれて、うれしいのかなさけないのかわかりませんが、命が続く限りは充実した生き方をしてみたいですね。ところで今日のこの会場はなかなか風情がありますね。神楽坂の一角にこんなところがあるとは知りませんでした。壺齋さんの紹介らしいですが、壺齋さんはここをよく使われているんですか。

壺齋散人:ええ、ほんの時折ですが。雰囲気がいいので気に入っています。女性を連れて来ると喜ばれるんですよ。

静女史:そうね、なかなか雰囲気がいいわ。

無覚先生:ところで、昨年は国政選挙もなく、表向きは穏やかな政治状況が続きましたが、日本の国の未来に大きな影響を及ぼすような出来事がいくつかありましたね。たとえば移民問題です。安倍政権は人手不足を理由に外国人労働者を大量に受け入れる政策を採用し、これが実質的移民政策ではないのかと話題になりました。今日はこの移民問題を取り上げて、御屠蘇のつまみにしようではありませんか。まづは移民を積極的に受け入れることの是非について。

俄然坊居士:外国人労働者を大量に受け入れるのはやむをえない選択だと思いますよ。すくなくとも経済の水準を一定のレベルに保ってゆくためには、労働力が非常に不足しているわけですし、我々がこれから年をとって、介護需要が増えてゆくのに、介護してくれる人材が絶対的に不足している。その穴を外国人に埋めてもらおうというのは、自然な発想だし、それ以外に選択肢がないのであれば、やはり外国人を受け入れて行かざるを得ない。ただそれは、労働力の不足を補うための一時的な便法であって、それについて移民という言葉を使うのはあたらない。安倍政権も、これは移民を受け入れることではなく、不足する労働力の埋め合わせだといっているじゃありませんか。

無覚先生:静さんはどう思いますか。

静女史:私は、できれば外国人をあまり増やしてほしくないわ。いまでも外国人労働者はすでに百万人以上いるというじゃありませんか。町を歩いていても、いたるところで外国人の姿を目にします。サービス産業はすでに外国人労働者によって成り立っているとも聞きますし、日本はすでに外国人労働者に依存した状態になっていると思います。だからこれ以上外国人労働者を増やすことには、わたしは抵抗を感じます。理由は二つあります。ひとつは、日本はこれから先、人口が長期的に減少するといわれるなかで、ずるずると外国人を受け入れてゆくことが、果たして正しい選択なのかどうか、その議論を曖昧にして、ずるずると受け入れてゆくことには反対だということがあります。もう一つは、安倍政権が言っているように、移民ではなく労働力だという立場に立つと、外国人の人間としての尊厳が保てなくなるのではないか。そのことで日本が、人権に無頓着な野蛮な国だというような批判を浴びることともなり、世界に対して肩身の狭い思いをしなければならない。そういうことから私は、できればこれ以上ずるずると外国人を受け入れるのは問題だと思うのです。できたら、外国人に頼らないでも国が存続できるような、今流行の言葉で言えば、持続可能なあり方を選ぶべきだと思います。なにも経済成長を追求するだけが能じゃないんですから。

俄然坊居士:経済はグローバル化を追求するけれど、人の流れについては鎖国政策をとるべきだということですか。

静女史:鎖国すべきだとはいっていません。なるべく外国人労働者に頼らないですむような社会を目指すべきだと思うんです。先ほどもいいましたように、外国人を受け入れるについては、当の外国人はたんなる労働力ではなく人間であるということに自覚的なことが必要です。ところが安倍政権は、外国人を移民すなわち人間として受け入れるのではなく、労働力の担い手、つまりものとして受け入れるのだといっています。それでは国際社会の理解は得られないと思います。とにかく、今の日本に外国人を人間として受け入れ、かれらに日本人なみの権利を付与する用意があるでしょうか。私にはあるようには思えません。そうしたことを曖昧なまま外国人を大量に受け入れると、この先、深刻な摩擦が生まれるように思えるのです。いまでも、外国人への差別意識が強いのに、これ以上外国人が増えると、なにかあったときに、深刻な排外運動が起きるような気がするのです。

無覚先生:静さんのいわれていることを整理すると、外国人を受け入れるについては、人間としてふさわしい受け入れ方をすべきだ、具体的には日本人なみの権利保障をしたうえで受け入れるべきだということになりますかね。昨年の国会における法案審議の際には、野党側から出た意見にそう思わせるようなものがありましたね。

静女史:外国人を受け入れるなら人間としてふさわしい受け入れ方をすべきだと私も思いますが、私の場合には、外国人を積極的に受け入れるべきだとまでは思っていません。できれば外国人に頼らない国作りをすべきだというのが私の基本的な考え方です。

俄然坊居士:それだと、日本はこの先、どんどん地盤沈下して、世界の二流三流国になりさがってゆく可能性が強いが、それでもいいというわけですか。

静女史:何が二流で、何が三流なのか、私にはわかりませんが、なにも経済成長することだけが国のあるべき姿だとは思いません。人口が少なくなれば、その人口に見合った経済とか社会とか、日本らしい国のあり方を模索すればいいのではないでしょうか。実際世界には、日本よりずっと少ない人口で、高い水準の国民生活を達成している国もあります。

無覚先生:ここでちょっと視点を変えてみましょう。外国人の受け入れを、経済の問題としてではなく、文化の問題として捉えるのです。いまの議論はあくまでも経済の視点から外国人問題をとりあげていたので、いきおい労働力問題に議論が集約されていった。労働力が不足しているから、その穴を外国人にうめさせようというわけです。これとは違って、文化の問題として外国人の受け入れを捉えるとどういうことになるか。要するに外国人との共存ということです。いまやグローバル化が非常な勢いですすんでいて、国境を超えた人間の移動が世界規模で起きている。そうしたなかで日本だけが、そういう流れから無縁でいることはむつかしい。だまっていても外国人は日本にやってきます。そういう傾向の中で、日本は外国人と共生していけるのか。また、共生するのがむつかしいとして、それをどう考えるのか。

俄然坊居士:外国人との共生は、言葉は美しいが、実際にはなかなか困難なところがあります。外国人の割合が非常に小さければ、共生というより包摂ということになって、日本人が外国人を日本文化に馴染ませるということがテーマになる。ところが外国人の割合が一定のレベルを超えると、包摂というレベルではすまないで、共生ということが問題になるかもしれない。つまり、日本人が外国人を、自分たちと対等の集団として認めなければならなくなるということでしょう。そうなれば当然文化的な摩擦が生じてくる。文化間の摩擦は、欧米諸国で深刻になっており、さまざまな衝突が起きている。それと同じことが日本では、もっと深刻なレベルで生じるかもしれませんね。だから私は、外国人を受け入れるにも、短期的な労働力として受け入れるべきであって、かれらを定住させたり、移民として国籍を付与したりはしないほうがよい、そう考えているのです。

静女史:あら、それは虫のよい考えというものだわ。それでは安倍政権の代弁者みたいな言い方になるわ。安倍政権は、労働力不足を訴える経済界に配慮して外国人を労働力として受け入れるといいながら、一方では保守層の反発に配慮して、これは移民ではなく、短期的な労働力不足対策なのだといっているわけでしょう。

無覚先生:おふたりの主張を整理すると、俄然坊さんは、文化的な摩擦が生じない程度に外国人の受け入れを制約すべきだということになり、静さんは、外国人をあまり受け入れてほしくないのが本音であるけれども、もしも受け入れるなら、外国人を人間として処遇し、したがって日本人との文化的交流も図らねばならない、ということになりますかね。いずれにせよ、お二人の意見はかなり違っている。ところで壺齋さんはどう思いますか。外国人が増えてゆくことで、日本はどのような国柄になってゆくか。いい意味での国際化が進展し、日本の文化的な多様性が高まると考えるのか、それとも日本の伝統的なよき文化が、国際化によって損なわれると考えるのか。

壺齋散人:保守層の人々は、外国人材の流入によって日本の伝統が破壊されるのを憂慮しているようですね。とはいえ、これから将来にわたって労働力不足は深刻化するわけですし、外国人材の一定の受け入れは避けられない。そこでどこかで折り合いをつける必要があるわけですが、保守層としては外国人によって日本の伝統文化がそこなわれることは許せない。そんなわけで、かなりアンビバレントな感情を抱いているのだと思います。私としては、これから先外国人がどんどん流入して来れば、日本のいわゆる文化に一定の影響を及ぼすのは自然な流れだと考えています。その影響にはいろいろなことが考えられますが、そのなかでもっとも望ましいのは、いまの日本人のもっている、島国根性というか、ちっぽけな自尊心が相対化され、もっと広い心をもてるようになる可能性です。人材のグローバル化にもしいい面があるとすれば、そういうところではないでしょうか。とはいっても、外国人材をどんどん野放図に受け入れよというわけではありません。この先も、人間の生き方というのは、国家単位であり続けるだろうと思うからです。

無覚先生:議論はなかなか尽きないようですが、お屠蘇がきいてきていい気分にもなったことだし、これ以上頭を使うのも、お互いの年のことを考えるとつらいものがある。というわけで、今日はこれくらいにしておきましょうか。壺齋さん、居心地のよい店を紹介していただいて、どうもありがとうございます。

壺齋散人:どういたしまして。



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