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日本の高度経済成長と中国の政治的・社会的混乱:近現代の日中関係


岸信介のあとを継いだ池田勇人は、岸に劣らず強権的なところがあったが、岸が世論から浮かび上がり、政権を失わざるをえなかった姿を見て、一転柔軟姿勢に切り替えた。「低姿勢」と「寛容と忍耐」をキャッチフレーズにして、国民にとって親しみやすい宰相のイメージ作りに腐心した。政策的には、国民の大きな関心事であった経済復興に力を入れた。「所得倍増計画」はその中核的なものである。その池田のもとで、日本は高度経済成長と呼ばれる時代に突き進んでいくのである。

池田は、中国に対して必ずしも友好的ではなかったが、中国との貿易が日本の経済成長に必要だという認識は持っていた。それを中国側も感じ取ったのだろう、池田が首相になるや、1958年以来中断していた二国間貿易の再開に応じた。当初中国は、明の時代の勘合符貿易にならって、友好商社という概念を導入した。これは台湾との取引を行わない日本企業に対して中国との貿易を許可するというものだった。

日中間の貿易は、LT貿易という形でルール化された。これは中国側の廖承志と日本側の高崎辰之助の頭文字をとったものだ。1962年11月に結ばれた「日中長期総合貿易に関する覚書」という協定にもとづくもので、日中両国が、正式な外交関係がない状態で、特定品目についての貿易のルールを明文化したものだった。この協定に基づいて、東京と北京に連絡事務所が設けられた。準政府機関の位置づけであった。

LT貿易は、日本の親台湾派やアメリカの反発を招き、大規模なものにはならなかったが、それでも日中間の貿易は着実に増大した。1960年代半ばには、日中間の貿易規模が日台間のそれを上回るようになった。だが、1966年に始まる中国の文化大革命によって、日中間の関係は大きな影響を受け、貿易の規模も頭打ちになった。中国は、建国後たびたび政治的・社会的な混乱を繰り返してきたが、文化大革命はその最たるものであった。

建国後の最初の混乱は、1953年から始まる急進的社会主義路線に伴うものだった。これは重化学工業重視と農業分野における集団化を柱とするもので、一定の経済成長をもたらしたことは確かだったが、それが一部分に偏っていたことで、資源がバランスよくいきわたらなかった。その結果消費材を中心とした物資の不足、とりわけ食料不足が深刻化した。

1958年に始まった大躍進政策は、一層大きなダメージを中国にもたらした。これは中国経済の規模を一気に倍増させようというもので、工業部門、農業部門いずれにおいても、実現不可能なことが明らかな異常な目標が掲げられた。目標を掲げるのはいいが、その目標に引きずり回されると悲惨なことになる。実際この大躍進政策によって、中国は惨憺たる状態に陥った。工業生産は低迷し、農業は連年の凶作となり、中国の経済は全面的な崩壊に直面したのである。その結果、2000万人以上が、飢餓や栄養失調などで死んだとされる。

大躍進政策の失敗を踏まえ、1960年の半ばごろには修正がはじまった。調整政策と呼ばれるもので、劉少奇らがそれを推進した。農業、軽工業部門を重視し、一部に市場経済原理も取り入れた。レーニンが、ロシア革命後崩壊状態になった経済を立て直すために、一時的に市場化政策を導入したひそみにならったのである。そのことが後に、文化革命中に、走資派と呼ばれる人々が弾圧される根拠とされた。

1966年に始まる文化大革命は、中国を未曾有の混乱に陥れた。これについては色々な見解があるが、毛沢東による権力闘争の現われだとするのが一般的である。じっさい毛沢東が死ぬ1976年に最終的に終わるのである。この文化大革命によって、100万人以上が死傷し、文化財が破壊され、経済が低迷し、外交が中断した。日中間の関係にも深刻な影響が及んだ。

文化大革命がもっとも猖獗を極めたのは、1966年から68年にかけてであった。紅衛兵と呼ばれる若者たちがその主な担い手となった。かれらは日本の団塊の世代に相当するもので、社会のあり方に大きな不満を抱いており、その不満が破壊につながったのであった。1968年は、若者による体制批判が世界中で広まった年であり、日本でも全共闘などによる学生運動が世間をにぎわした。その日本の学生運動に文化大革命は一定の影響を与えた。

文化大革命は、権力の中枢にも大きな影響を与えた。この革命自体、毛沢東に扇動されたという側面を持っていたわけで、毛沢東はこの革命を利用して、政敵たちを次々と破滅させていった。劉少奇は獄死し、彭徳懐は紅衛兵たちに虐待されながら死んだ。

革命の勢いに乗って出世したものもいる。毛沢東夫人紅青は四人組を結成して政治に大きな影響を及ぼし、林彪は毛沢東に忠誠を誓ってその後継者に指名された。だが不可解な事件で死んでいる。クーデタが発覚したからだという解釈もあるが、釈然としない。

文化大革命で外交的な孤立状態に陥った中国は、長年の友好国であるソ連とも対立関係に陥った。1969年には国境線をめぐる軍事衝突にも発展した。世界中から孤立した中国は、これではまずいと思ったのだろう、他国への接近を試みるようになった。日本との間でも貿易を拡大する意思を示した。それは1969年の日中貿易の増加となって現われた。1970年には、日本が中国にとっての最大の貿易国になった。もっとも日中二国間の貿易総額は、年間10億ドル程度にとどまってはいたが。

いずれにしても中国は、文化大革命の破壊から立ち直り、国を発展軌道に乗せるためには、外国との幅広い強力関係が必要だと考えるようになった。それが中米接近や日中接近の動きへとつながっていくわけである。



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