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朝鮮戦争と冷戦:近現代の日中関係


日本の敗戦によって、朝鮮は統一国家として独立するはずだったが、そうは行かなかったのは冷戦の影響である。冷戦が表面化するのは戦後しばらくたってからだが、終戦頃にはすでに米ソ対立のきざしはあった。その対立のために、朝鮮は南北に分断される方向に進んだ。ドイツが東西に分裂する方向に進んだのと同じプロセスをたどったわけだ。

戦後すぐに北緯38度戦を境にして、北をソ連が、南をアメリカが占領した。米ソは英中をも加えた上で、共同して朝鮮半島全体の信託統治案を検討したりしたが、結局話し合いはまとまらず、分割占領が持続した。それを前提として、米ソはそれぞれ自分の影響下にある政権を樹立する動きを見せた。その結果、1948年8月に、南部には李承晩を中心とした民族主義者たちが大韓民国(韓国)を樹立し、続いて同年9月には、北部に金日成を中心とした共産主義勢力が朝鮮民主義人民共和国(北朝鮮)を樹立した。

李承晩はキリスト教徒で、プリンストン大学に学び、オーストリア人女性と結婚した経歴をもち、アメリカとしてはなにかと親近感が持てた。一方金日成は満州で中国軍ゲリラ部隊の一員として日本と戦った経歴を持っていた。二人とも、自分が主体となって朝鮮半島の統一を達成するつもりでいた。なお、この時点での南北の国力は、北朝鮮が優位にあった。日本の植民地支配のもとで、化学工場をはじめ産業基盤の整備が進んでいたからだ。一方韓国のほうは農業中心の社会であった。

南北の間の戦争、つまり朝鮮戦争が勃発したのは1950年6月である。この戦争は金日成の野心に基づくものだった。しかし単独で韓国を攻撃するのは大きな冒険だった。アメリカが介入する恐れがあったし、またソ連や中国の意向を無視するわけにもいかない。アメリカについていえば、1950年1月に、アチソン国務長官が冷戦の防衛ラインを発表し、その中でフィリピンは含まれたが朝鮮は含まれていなかった。そこで北朝鮮としては、アメリカは介入しないだろうとあてにすることができた。一方ソ連に向っては、共産主義勢力による武力統一について説得工作を行い、スターリンの承認を受けた。しかし中国共産党は、朝鮮での戦争に巻き込まれることは想定していなかったようだ。

こういう状況の中で、北朝鮮軍は韓国に奇襲を仕掛け、圧倒的な兵力をもって韓国軍を撃退した。後退する韓国軍は釜山まで追い詰められる。このまま韓国軍が敗退すると、朝鮮半島全体が共産主義化する。そういう危機意識が、アメリカを介入に踏み切らせた。アメリカは日本に駐留していた部隊を韓国派兵の中核部隊とし、日本列島を戦争の前進基地とした。そこで日本から米軍がいなくなる穴埋めとして、日本の武力の復活を指令した。それに基づいて1950年8月に警察予備隊が編成された。後に保安隊を経て自衛隊へと発展することとなる。いわゆる再軍備である。

アメリカは戦争介入の大儀として、北朝鮮の侵略だとする国連の決定を取り付け、国連軍の派遣という形をとることができた。そんな重大な事項を国連が決定できたのは、当時ソ連が安保理をボイコットしていて、不在だったということもある。

ともあれアメリカ軍主体の国連軍は、同年9月に仁川に上陸し、北朝鮮軍に反撃した。圧倒的に武力で勝る国連軍は、あっという間に北朝鮮軍を蹴散らし、38度戦を越えて北朝鮮へ進攻する動きを見せた。そこで中国は、もしアメリカが38度戦を越えたら中国は参戦すると警告したが、マッカーサーらアメリカの指導者はそれを嘲笑して、38度戦を越えて北朝鮮の攻略につとめた。そしてアメリカが中朝国境に迫ったとき、ついに中国が軍隊を北朝鮮内に進攻させた。こうして朝鮮戦争は、南北の対立から、米中の直接対立へと発展した。

だが戦争はなかなか決着がつかず、膠着状態に陥った。その結果1953年7月、38度線近くの板門店において、北朝鮮・中国両軍と国連軍との間で休戦協定が結ばれた。これには、韓国による北進統一にこだわっていた李承晩は、不満を表明して参加しなかった。ともあれ約三年間に及ぶ朝鮮戦争は多大な犠牲を出した。その詳細はわかっていない。色々な数字があるが、ここではエズラ・ヴォーゲルのものを紹介しておこう(「日中関係史」から)。この戦争で死傷した兵士の数は、中国が90万人、北朝鮮が52万人、韓国を含む国連側が40万人にのぼるという。このうちアメリカ軍は、国防総省の発表によれば、戦死者3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中行方不明は8176人にのぼる。いかに大きな犠牲を出したかがわかる。

朝鮮戦争は、南北対立から始まり、米中対立へと発展したわけだが、世界史的にみれば、東西冷戦が熱い戦争へと転化したといってよかった。冷戦はヨーロッパを舞台にしても進行していたのだったが、それが大規模な軍事衝突に発展したのは東アジアにおいてであった。その大規模な戦争に、日本はとりあえず巻き込まれずにすんだ。それどころか、日本は戦争の後方基地となって、国連軍への補給基地の役割を果たしたおかげで、莫大な軍需を受けることとなって、それが日本経済をうるおした。いわゆる朝鮮特需である。この特需を追い風として、日本経済はたくましく回復していくのである。

中国についていえば、この戦争は中国に巨大な負担を強いた。人的被害にとどまらず、経済的にも大きな打撃となった。戦争のための財政支出は国家予算の半分以上を占めた。また、西側諸国との貿易関係が遮断され、中国経済は大打撃を受けた。朝鮮戦争は、生まれたばかりの中華人民共和国にとって過酷な負担をもたらしたのである。それが以後の国の発展を大きくゆがめることともなった。

一方日本は、冷戦の深まりの中で西側へ強くリンクされ、アメリカに従属しながら、西側の一員として復興していく道を選んでいくのである。



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