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台湾の国民党政権:近現代の日中関係


日本の敗戦によって、台湾は中国に返還され、朝鮮は独立し、日本の傀儡国家満州国は消滅した。まず台湾について、中国への返還プロセスを見ておこう。朝鮮や満州国と異なり、台湾においては、日本による統治はすぐさま崩壊したわけではなく、しばらくの間、台湾総督府もそのまま存続していた。統治権が中国に正式に返還されるのは1945年10月のことである。10月17日に蒋介石が派遣した国民政府の役人200名が、国民政府軍約1万2000人とともに、アメリカの艦船に乗って台湾に上陸し、同月25日に日本の降伏式典が行われた。それ以後台湾は、蒋介石の国民政府の統治下に入る。なお、10月25日は今でも、「光復節」として記念日になっている。

終戦時に台湾にいた日本人は、約50万人ほどだった。そのうち約48万人が最終的に日本に引き揚げた。うちわけは軍人・軍属が約16万人、民間人が約32万人だった。かれらは1946年2月から1949年8月までの期間に、たいした混乱もなく日本に帰還した。そのうちの28万人余りは、1946年2月から3月にかけての第一次帰還事業で帰還を果たしている。

蒋介石の国民党政府は、陳儀を台湾省行政長官に任命し、本格的な台湾統治に乗り出した。台湾に従来から住んでいた人々(本省人)は、政治への参加や日本企業の資産の引継ぎを期待していたが、陳儀はその期待を裏切った。政府の要職はほとんど大陸から来た人々(外省人)によって占められ、日本が残していった資産は国営企業のもとに接収された。また、長い日本支配のもとで本省人が慣れ親しんでいた日本語は禁止され、かわって中国の標準語(北京語)が強要された。台湾土着の言葉である閩南語は、公用語としては用いられなかったのである。

こうした状態に、本省人たちは深い失望を抱くようになった。その失望が先鋭化し、国民党政府との間の対立に発展した結果、いわゆる2・28事件が起きる。これは、1947年2月28日に、台湾の本省人の民衆が、国民党政府の機関を攻撃したというものだった。前日に起きた露天商の女性と政府の役人との小競り合いがきっかけになって、日頃たまっていた本省人の国民党政府への怒りが爆発したのであった。国民政府の役人は腐敗の限りであり、また国民党政府と共にやってきた本土の連中も本省人を食い物にしている。そういった怒りが爆発したのである。

台湾当局は、事件の処理委員会を設けるなどして事態の収拾をはかり、一旦は沈静化したように見えたが、事件を知った蒋介石は、3月8日に大部隊を台湾に送り込み、10日には戒厳令をしいて、本省人に対する徹底的な弾圧に踏み切った。この弾圧は、本省人によって白色テロと呼ばれ、その犠牲者は、一説には2万8000人に上るという。この弾圧によって、本省人社会の指導層が根こそぎ失われた。その上で蒋介石の国民党政府は、台湾に対する抑圧的な統治を行うようになった。その結果、本省人と外省人との間には、深刻な亀裂が生まれたのである。

2・28事件とそれに続く弾圧については、侯孝建の映画「非情城市」が描いている。この映画からは、国民党は悪魔のような連中で、それに比べれば日本人のほうがずっとましだったというような雰囲気が伝わってくる。そうした本省人の大陸に対する反感が、いまの台湾の独立思考へとつながっている面は否定できないと思う。

2・28事件の責任を取らされる形で、陳儀は台湾省行政長官を解任され、後に共産党への内通を理由に処刑された。

蒋介石の国民政府軍は共産党軍との戦いで苦戦を強いられた。共産党が最終的に勝利し、中華人民共和国の成立を宣言するのは1949年10月のことだが、蒋介石はそれ以前に敗戦を覚悟し、北京の紫禁城に保管されていた膨大な財宝を、他の都市に疎開させていた。その後蒋介石は、それらの財宝を持って台湾に渡る。現在台湾の故宮博物院に保管されている文化財のほとんどは、蒋介石が北京から持ってきた財宝なのである。

蒋介石はまた、国民党の軍人たちや、民間の企業家たちも大勢台湾に連れてきた。上海などで企業経営をしていた人々は、共産党支配のもとで私有財産が没収されることを恐れ、香港や台湾に逃れた者が多かったのである。戦後、香港や台湾の経済的な発展に、これらの人々が果たした役割には大きなものがある。

戦後大陸から台湾に移住した外省人の数は、正確にはわかっていない。軍人だけで60万人といわれ、それに民間人を加えて、合計100万人以上と推測されているが、200万人以上だという説もある。台湾の全人口に占める外省人とその子孫との割合は、1995年の時点で17パーセントというが、これは言語学者による母語の分析にもとづくものである。

蒋介石は、台湾に移ったあとも中国の統一を諦めなかった。台湾の国民政府は、台湾を代表するのみならず、中国全体を代表すると主張した。その主張を、アメリカや日本は受け入れた。日本は、後に日華平和条約を結び、台湾政府こそが中国全体を代表するという立場をとったのである。

一方、共産党の中華人民共和国政府も、台湾は中国の一部だと主張した。両者のそうした対立は、しばしば台湾海峡をめぐる軍事衝突に発展した。この軍事衝突は、蒋介石側から仕掛けたものもあり、逆に共産党側から仕掛けたものもあったが、決定的な結果にはいたらず、今日に至るまで膠着状態が続いている。それは政治的には、大陸の政権と台湾の政権とが共存していることを意味するわけだ。

なお、これは余談だが、旅行者として台湾を訪れる際に、いまでも本省人と外省人との根深い対立感情を感じることがある。典型的なのは、外省人に本省人に対する優越意識が見られることだ。かれらは、自分たち本土からやってきた人間こそが、台湾を文明国家に押し上げたと思っている。そんな外省人に対して、本省人がむき出しの敵意を示す現場に立ち会ったことはないが、我々日本人に対して好意を示すのは、だいたいが本省人の系統の人達である。かれらはおそらく、蒋介石よりは日本人のほうがましだったと考えているのだと思う。



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