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日本の満州侵略:近現代の日中関係


日露戦争に勝利した結果、日本は満州における利権を獲得することができた。ロシアが持っていた旅順と大連の租借権のほか、満州南部の鉄道の運営権を獲得した。日本はそれらの権益を土台にして、以後本格的な満州侵略に乗り出していく。しかし台湾や朝鮮の場合とは異なり、領有あるいは併合という形はとらなかった。満州国という傀儡国家をつくり、その傀儡を通じて実質的な支配を貫徹するという方法をとった。

日本の満州支配のエンジンになったのは南満州鉄道、通称満鉄だった。この満鉄は、鉄道用地のほかに沿線の土地の管理経営権も持っていた。その中には石炭鉱山や鉄鋼鉱山も含まれていた。台湾にいた後藤新平が1906年に満鉄総裁として赴任してくると、満鉄を日本の実質的な統治機関に位置づけて、さまざまな施策を実施した。満鉄の主な収入源は、鉄鋼や大豆の輸送だったが、そこから上がる収益をもとに、鉄道用地周辺の整備をはかり、やがて線の支配を面の支配へと拡大していくのである。

南満州鉄道の安全を確保するという名目で日本軍も駐留した。関東軍である。日露戦争終結時に満州に居た日露両軍はとりあえず双方とも撤退したのであったが、その後日本側は、満鉄警護の名目で関東軍を派遣したのである。当初の兵力規模は約一万人であった。この関東軍が、やがて暴走して、張作霖爆殺や満州事変を引き起こし、満州国の成立へ向けて突っ走っていくのである。

当時中国側で満州を実質的に支配していたのは、奉天派の軍閥張作霖だった。日本は当初この張作霖を満州支配のパートナーと考えていた。ところが、張作霖が大豆などの物資輸送で日本に対抗し、そのための自前の鉄道網整備に意欲を見せると、日本との間で緊張の種になった。張作霖は実力を蓄えており、北京の中央政府も差配するようになったが、蒋介石の北伐軍に対抗できず、北京から満州に逃げた。その逃避列車の中に乗っているところを関東軍によって爆殺された。張作霖の死後は、息子の張学良が継いだ。張学良は日本に敵愾心をもっていたものの、日本軍の実力を知っていたので、公然と敵対することはなかった。張学良に限らず、日本の満州支配への中国側の抵抗は、非常に弱かったといえる。

1931年9月、いわゆる満州事変が勃発した。奉天近くで満鉄の線路が爆破されたというものだが、これも関東軍が仕掛けた狂言だった。この狂言を最大限に利用すべく、関東軍は規模を拡大し、奉天の軍事占領をはじめ、長春も占領し、満州全体を支配下におさめた。そのため、事変勃発時には一万人だった関東軍の勢力は10万人までふくれあがった。日本はあっという間に満州を完全に軍事支配したのである。それに対して中国側は、まともな反撃をすることがなかった。蒋介石が、共産党との戦いを優先させて、日本には微温的に接したからだ。ともあれ満州事変は、中国人にとっては国恥として記憶され、以後の日本による中国支配のさきがけとして、また1945年まで続く日中戦争のスタートラインとして位置づけられることとなる。

満州事変を主導した石原莞爾には壮大な野望があった。かれはいわゆる大アジア主義者で、アジアが一致団結して西洋列強に対抗すべきだと考えていた。その団結の中心として日本を位置づけ、将来的には日本のもとに結集したアジア諸国が西洋列強との最終的な決戦を行い、勝利するであろうと予言していた。その列強との戦争をかれは最終戦争と呼び、戦争の勝利者たるアジア人民とその棟梁としての日本人が世界を平和に治めていくというような構想を持っていたのである。かれの満州支配は、そうした構想を実現する為の一里塚のようなものだった。その石原は、東条英機との対立で有名だ。この二人は感情的に折り合わず、石原は東條を無能呼ばわりして侮蔑を隠さなかったが、そのため東條に憎まれて失脚した。そんなこともあって、無役で迎えた敗戦時に、占領軍から戦争責任を問われることがなかったのである。

その石原が中心となって、1932年3月に満州国が成立した。清朝最後の皇帝溥儀を執政として担ぎ出し、翌々年には皇帝につけた。しかし皇帝とは名ばかりで、実質的には日本の完全な傀儡国家だった。それは国際社会から日本による中国の侵略だと見なされた。国際連盟はこの問題を重視し、いわゆるリットン調査団を派遣した。調査団は、満州が中国の一部だと認定した上で、その中国の主権を侵害するような形で日本が満州国建設に関ったことの不当性を指摘した。これに対して日本は強く反発した。その反発が1933年3月の日本の国際連盟脱退につながるのである。

国際連盟を脱退したことで、日本とくに関東軍は、国際世論を気にする必要はないと考えるようになった。その考えにもとづいて、関東軍は公然と満州支配に乗り出した。満州には、関東軍や満鉄の関係者のみならず、一般の日本人も、満州開拓の名目でやってきた。1940年の国勢調査では、満洲には約4000万人の人口があったが、そのうち日本人は85万人、朝鮮人が145万人を占めていた。大部分は漢族で、満州族の割合は数パーセントであった。

ところで関東軍の暴走振りは有名である。日中戦争以後は軍部の中で下克上的な風潮が高まり、軍の規律の弛緩が指摘されるのであるが、そうした下克上の風潮が最も強く見られたのが関東軍だった。関東軍はある種の聖域扱いされ、現地の指導者が勝手な行動をした。1939年のノモンハン事件はその典型である。これは日本が支配する内蒙古とソ連が支配する外蒙古との国境をめぐる紛争だったが、東京の意思にかかわらず、現地の勝手な判断にもとづいて行われた。結果は日本の完敗だった。なぜそうなったかについては、全く検証されなかった。現地の一部将校のお遊びだったからである。だから日本軍は、組織全体として戦争に取り組むという基本的な姿勢を確立できていなかったということになる。そんなことで強敵を相手に戦うことができるわけがない。



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