日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




北伐と中国統一政権の樹立:近現代の日中関係


中国では1917年以降北京政府と広東政府が並立する状態が続いていて、全国を統一する政権は存在しなかった。北京政府が中国北部を、広東政府が中国南部をそれぞれ統治するという建前だったが、実際にはどちらも低い統治能力しか持っていなかった。北京政府のほうは、いわゆる軍閥の抗争に明け暮れ、広東政府のほうは、自立性の高い各省をまとめるだけの能力がなかった。こうした状況の中から、次第に広東政府が力をつけ、ついには北伐を経て、全国を統一する政権が誕生するのは1928年6月のことである。

北京政府は、西洋列強からの承認を受け、パリ講和会議にも参加した。一応は中国を代表する政権と認められていたのである。しかしその内部は一枚岩ではなく、軍閥の抗争に明け暮れていた。軍閥は主として直隷派、安徽派、奉天派に分かれていた。この三つの派閥が互に覇権をねらって争ったのである。まず直隷派が奉天派と結んで安徽派を倒し(安直戦争)、政権を握った(1920年7月)。1922年には直隷派と奉天派の戦いがあり、敗れた張作霖は満州に退いた。1923年には直隷派の軍人曹錕が黎元洪にかわって大総統の地位に着き、1924年には馮玉祥が曹錕にとってかわった。めまぐるしい権力の交代がおきたのである。馮玉祥は従来溥儀に与えられていた特権を廃止し、紫禁城から追放した。溥儀は日本の保護を求めて天津に逃れた。この時のつながりが、後に溥儀を日本の傀儡政権満州国のトップに据えることにつながるのである。

広東政府のほうも、安定しなかった。広東省はじめ各省が独立志向が強く、政府の意にそぐわない事態が一方であることに加え、政府も一枚岩ではなかった。孫文と陳炯明が対立し、その戦いから孫文が勝ち残って権力を握った。孫文は、西洋列強が北京政府を贔屓にしていることに憤慨し、出来たばかりのソ連に期待を寄せた。そこで広東政府の運営にソ連を介入させた。ソ連は人材を送り込み、孫文を助けた。その最も意義の大きいものは、黄埔軍官学校を拠点とした軍事教育への協力である。この学校の校長には孫文の腹心蒋介石が納まったが、蒋介石自身は日本式の軍事教育を受けており、ソ連式のやり方には懐疑的だったようだ。

孫文の政治理念は三民主義とアジア主義というものだった。三民主義の具体的な内実は、先進的な革命党が中核となって中央集権的な国民国家を作るというものだった。一方アジア主義は、日本をまきこんでアジアがヨーロッパに対抗できる勢力を養うというもので、その呼びかけの範囲にはソ連も含まれていた。ソ連は、帝政ロシアが対中国で有していたさまざまな利権を自主的に返上するというポーズをとっており、そのことも孫文のソ連贔屓を強めた。孫文は死ぬまでソ連贔屓であり、容共路線を掲げていた。

そのソ連の後押しもあって、中国に共産党が形成された(1921年)。コミンテルン中国支部という位置づけだった。実質的にソ連の傀儡政党と言ってよい。ソ連は、中国共産党に孫文への強力を求めた。孫文もまた共産党員が国民党に加わることを拒まなかった。共産党員は共産党の党籍を保持したまま国民党に加入し、国民党の要職の一部を占めたのである。

北京の馮玉祥は、自分の権力基盤を強める目的で孫文を北京に呼んだ。孫文は1924年11月に広東をたち、東京を経由して、12月末に北京に入った。途中東京で、有名な「大アジア主義講演」を行った。この講演は、ヨーロッパと対抗するために中国と日本が手を結び、さらにソ連も味方に引き入れようとする内容を含んでおり、反共に凝り固まった日本の軍部には、聞き捨てならぬものであった。ともあれ、この時に孫文が吐いた言葉、日本が「西洋の覇道の番犬となるか、東洋の王道の牙城となるか」は、広い反響を及ぼした。

北京に入った時、孫文は癌の末期にあった。すぐさま手術が施されたが、まもなく死んだ(1925年3月)。孫文の死は、中国近代史の大きな転換点となる。その後の中国史は、孫文の残した国民党と共産党との対立を軸として展開していくこととなる。

北京ではその後、馮玉祥と奉天派の張作霖との間で戦いがあり、張作霖が勝った。その裏には日本の介入があったと言われる。日本は馮玉祥が孫文を通じてソ連と通じているのではないかと疑い、その排除に動いたというのである。その結果、北京の政府は張作霖が握ることになった(1926年12月)。

孫文の死後、中国の政治状況は渾沌の度合いを深めた。そんななかで労働運動が激化した。1925年の5月30日には上海で大規模なストライクが起きた。いわゆる5.30事件である。ストライキは各地に広まり、国民党と共産党はそれを後押しした。こういう中で、1926年7月に、蒋介石を司令官とする北伐が始まった。この北伐の成功によって、中国はとりあえず一つにまとまるのである。

北伐軍は、武漢、上海を相次いで支配下におさめ、1927年3月には長江以南をほぼ占領した。そのなかで南京事件がおきている。これは、北伐軍が南京に入城した際に、日本を含め各国の領事館が攻撃され、外国人への暴行や略奪があったというものである。

北伐軍は、北上中済南で日本軍と武力衝突を起している。これは済南を護衛していた日本軍2000名と北伐軍との間で衝突が起きたものだ。衝突の原因はいまだに解明されていない。この衝突で、北伐軍側に甚大な被害があった。死傷者6000人余とも言われている。この衝突は日中両国で感情的な反応を引き起こした。日本の新聞はこれを、中国側が一方的に日本人を襲撃したと騒ぎ立てた。

北伐軍は、1928年6月に北京入りし、張作霖を満州に追い払った。これを以て北京政府は消滅し、中国は統一された。新たな政権のリーダーには、孫文の後継者と衆目に見られていた蒋介石がつくことになる。

張作霖が満州に逃げる途中、彼の乗った列車が爆発して、張作霖が死ぬという事件が起きた。これは今日、関東軍による陰謀だったと結論づけられている。日本政府としては、満州侵略の手先として、張作霖の価値を認めていたのだったが、現場を仕切っている関東軍が、張作霖を殺害して混乱をおこし、それに乗じる形で日本の支配を拡大しようと考えたのであった。陰謀の当事者は関東軍であったが、時の宰相田中義一はそれを制御できなかった責任を昭和天皇から問われた。天皇の信頼を失ったと感じた田中は宰相を辞任し、まもなく死亡する。

済南事件と張作霖爆殺は、いづれも日本の中央の統制の及ばないところで、現地軍の勝手な判断で起きたことである。それはその後の軍部の暴走のさきがけとなる事件であった。



HOME 近現代日中関係史次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである