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第一次世界大戦と対華21か条要求:近現代の日中関係


1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。これには袁世凱の中国政府は中立の政策をとったが、日本は参戦した。根拠は日英同盟であった。日英同盟には、一方の国が他国と交戦した場合には同盟国に参戦義務を負わせる規定があった。日本はこれに基づいて参戦しようとしたのだが、イギリスは中国における日本の利権の拡大を望まず、日本の参戦には消極的だった。だが、日本が条約の規定を盾に強く参戦を望んだので、イギリスはそれを受け入れたのである。日本としては、ドイツが中国に持つ利権を横取りする絶好の機会と受け止めて、参戦したのであった。

1914年8月、日本は山東省を根拠とするドイツに対して、イギリスと共に攻撃を加えた。5000名のドイツ軍に対して、日本軍は23000名、イギリス軍は1500名であった。事実上日本とドイツの対決であり、戦力においては日本軍が圧倒的に有利と思われた。しかし日本軍はドイツ軍を相手に苦戦を強いられた。日本軍の軍事技術が時代遅れなものだったのに対して、ドイツは近代的な軍事技術を有していたからである。それでも日本軍は健闘し、二ヶ月にわたる戦闘を経て青島を占領し、引き続き山東省全域を占領した。以後日本は、七年以上にわたって山東省を占領し、実質的に統治することとなる。

日本は、ドイツが山東省に持っていた利権を、日本がそのまま引き継ぐのは当然のことだと思っていた。中国としては迷惑な話であったが、武力がものを言った時代である。そこで、日本は1915年1月に五項目21か条からなる要求を中国の袁世凱政権に突きつけた。いわゆる対華21か条要求である。

五項目の具体的な内容は次のようなものである。①ドイツが山東省に有していた利権を日本がそのまま引き継ぐこと、②旅順、大連の租借期間を、従来の25年から99年に延長すること、その他満州及び内モンゴルにおいて事実上日本が獲得していた利権を条約によって確実化すること、③漢冶萍煤鉄公司を日中合弁とし、鉄鉱石の採掘権を日本に与えること、④中国の領土保全、港湾、島嶼などの不貸与、⑤中国の政府に日本人顧問を採用すること。

この要求を前に、中国側では大きな反発が起きた。中には断固拒否を主張する者もいたが、日本が軍事力を背景に最後通牒に及ぶと、袁世凱は腰砕けになった。結局第五項を除く他の四項目について受け入れたのである。他の四項目は、多かれ少なかれ現に実現している事態を追認するものであったのに対して、第五項は中国の政府を日本の意のままにさせることを意味し、主権の重大な侵害に他ならなかったから、いくら袁世凱でも認めるわけにはいかなかったのである。日本もこのことで突っ張るつもりはなかった。

ともあれ、この問題をめぐって日本に屈服したことは、中国人の対日感情をきわめて悪化させ、対日ナショナリズムというべき動きを強めさせた。袁世凱は国賊呼ばわりされ、かれの打倒をめざす動きも起きた。それに対して袁世凱は、独裁を強化することで乗り切ろうとした。その動きの行き着くところとして、1915年12月の冬至の日に、中華民国を廃止して中華帝国の成立を宣言し、自ら皇帝を名乗ることとなった。しかし彼の求心力は極端に低下しており、わずか三ヶ月で帝国を従来の民国に戻し、自分は大総統の職に戻ることとなった。しかも更にその三ヵ月後には心労のあまり死んでしまうのである。袁世凱が日本に対して妥協的だったのは、政敵の孫文を日本が始末してくれることを期待したからだとも言われている。孫文は袁世凱の権力奪取後、日本に亡命していたのである。

袁世凱の死後、黎元洪が二代目大総統となり、馮国璋が臨時大総統として続いたが、政局は安定せず、中央では安直戦争と呼ばれるような内紛、地方では中央からの自立の動きが強まった。そうした混乱の中から、段祺瑞が一頭抜き出て、国務総理として実験を握るようになった。

段祺瑞政権の仕事でもっとも重要なのは、第一次世界大戦への参戦である。1917年8月、戦局の終盤になって、中国はドイツとオーストリアに宣戦布告したのであった。もっとも中国は、ヨーロッパ戦線に派兵することはなかったし、中国国内でドイツ軍と戦ったわけでもない。ただ、ロシアで起きた10月革命に連合国が軍事介入したときには、中国も連合国の一員として軍を派遣している。このシベリア派兵は、直接的には1918年5月に締結された日華軍事協定に基づいている。この軍事協定は、新しく成立したソ連革命軍に対して、日中が共同で防衛することを目的としていた。日本は他の国が撤兵したあとでも派兵を続けたが、中国はいち早く撤兵させている。

第一次世界大戦は1918年11月に終結した。この大戦に名目上でも参戦したおかげで、中国は一応戦勝国となった。中国としては、外国(西洋列強)と戦争して戦勝国となったのは、これが初めてのことである。この戦勝をもとに、中国では、対華21か条要求の解消はもとより、各国との不平等条約の改正や国権の回収を期待する動きが強まった。

第一次世界大戦の戦後処理を協議するパリ講和会議が1911年1月に開かれた。中国も戦勝国の立場でその会議に臨んだ。中国代表団は、七か条の意見書を会議に提出し、中国の要望をアピールした。中国の参戦により対華21か条要求が無効になったこと、不平等条約改正に道筋をつけることなである。しかし、列強諸国は中国の要求に冷淡だった。中国が強く要求した21か条要求の解消が認められなかったので、中国はベルサイユ条約には署名しなかった。しかし、戦後設置されることになっていた国際連盟には、是非加盟したいと考えていた。国際連盟は、戦勝国の社交場のようなものとイメージされていたのである。

中国は、パリ講和会議では言い分を聞いてもらえなかったが、ドイツとの単独講和でかなりな成果をあげることができた。ベルサイユ条約に調印しなかったことでドイツの交戦状態が続くこととなり、それを解消するための単独講和がなされたのである。1921年5月に締結されたこの講和条約によって、中国は、ドイツが享受していた治外法権、関税自主権、最恵国待遇を廃止させ、義和団賠償金の廃止や租界における特権の廃止を勝取ることができた。これは中国が、列強の一角と初めて結んだ平等条約であった。その条約を、戦争での勝利がもたらしたわけである。



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