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清末の政治改革と革命運動:近現代の日中関係


日露戦争での日本の勝利は、立憲君主制の専制君主制への勝利というふうに中国では受け取られた。というのも、ロシアが負けたのは、軍事力で劣っていたというよりは、革命に伴う内乱の勃発で、対外戦争どころではなくなったからであり、その革命を引き起こしたのは専制政治への民衆の氾濫だったからだと解釈されたからである。ロシアが内乱に陥ったのに対して、日本は国をあげて戦争に臨んだ。それは立憲制のもとで国民の政治参加の意識が高かったからだ。そのように解釈された。そこで日露戦争後の中国では、立憲君主制に向けての政治改革の動きが高まった。その際目標とされたのは日本の明治憲法体制だった。

清朝は、1905年暮に考察憲政大臣を先進各国に派遣するなどして海外の政治制度の研究を行ったうえで、1906年の9月に「憲政を模倣して実行する」という趣旨の予備立憲を宣言した。これは明治憲法の発布に先立って、内閣の組織など憲政の体制を予備的に実施した日本のやり方をならったものだった。じっさい、清朝は政治改革のプランを作るうえで、日本の伊藤博文からアドバイスを受けていた。伊藤は清国に対して、立憲を強く勧めたうえで、立憲には立憲君主と立憲民主があるが、清国には立憲君主が相応しいとアドバイスしたのであった。

清朝の政治改革の最大の目的は、近代的な国家体制を整備することで、西洋列強から文明国として認めてもらい、そのことで不平等条約の解消をはかり、ひいては西洋列強に不本意に与えたさまざまな利権を回収することにあった。一人前の文明国として西洋列強に認めさせるには、西洋流の近代国家になることが是非必要だと認識されたわけである。

政治改革の第一歩として、1906年11月に中央官制の改革が行われ、外務部ほか11の部が設けられた。ついで1908年8月に憲政予備の詔勅が発せられ、9年以内に憲法を制定し、議会を召集すると宣言された。あわせて欽定憲法の草案が示されたが、その冒頭には、君上大権と銘打って、「大清皇帝は大清帝国を統治し、万世一系にして、永久に尊厳される」とあった。これは、冒頭に「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」とあり、また「天皇は神聖にして犯すべからず」とある日本の憲法を模倣したものである。

草案のほかの条項を読むと、立憲とはいえ議会の権限は日本よりはるかに狭く規定され、日本と比べると、皇帝の権力を高め、議会の権限を制限する意図が強く見える。

1910年10月には資政院が開設された。これは200名の議員からなり、勅撰と民選が半々だったが、あくまでも諮問機関であり、議会ではなかった。ついで1911年5月には内閣官制が制定され、総理大臣の権限が強化された。それまで中央各部の長や地方の総督・巡撫はそれぞれ皇帝に直結していたが、総理大臣の直属とし、総理大臣に権限を集中させた。

こうした動きと平行して、中国人の間には、自分らの国に対する意識が高まっていった。従来は清という王朝の名を国の名としていたのだったが、それとは別に、国自体の名として中国という言葉が使われるようになった。中国こそが各王朝を通じて国自体の名称なのであり、清とか明といった名称は、その中国の一時代における王朝をあらわすに過ぎないというふうな意識が強まったのである。一方日本では、王朝とは別に、中国をさす言葉として支那が使われるようになった。これは欧米の用法を模したということもあるが、弱体なくせに中国を僭称するのはけしからぬという、ある種の差別意識と優越感情が働いたともいえる。

なお、中国人の中国という言葉へのこだわりを最もよくあらわしたものとして、梁啓超の次のような言葉がある。「吾人がもっとも慙愧にたえないのは、わが国には国名がないことである。漢、唐などは王朝名であるし、外国人の使う支那はわれわれがつけた名ではない。王朝名でわが歴史を呼ぶのは国民を重んじるという趣旨に反する。支那という名で呼べば、名は主人に従うという公理に反することになる。中国・中華などの名には自尊自大の気味があり、他国から批判されるかもしれないが、三つの呼び名それぞれに欠点があるなかでは、やはりわれわれの口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶこととしたい。それぞれの民族が自らの国を尊ぶのは世界の通義であり、これもわが同胞の精神を喚起する一つの手段であろう」(岸本美緒訳)

こうして近代的な政治改革へと清国が向かっている間に、民間では清国を倒して新しい中国をめざす革命運動が活発化していった。その革命運動が清朝を倒すのは1911年のことである。清朝は、近代的国家づくりを始めようとした矢先に革命によって打倒されるわけである。

革命の中心にいたのは孫文だったというのが、日本での大方の受け取り方である。しかしそう単純には割り切れない。孫文のほかにいくつもの革命運動が存在し、それらが呼応しあって大きな運動に発展したというのが実際のところだ。その中で孫文は、名声は大きかったが、かならずしも運動全体を代表していたわけではない。

孫文は、1895年10月に広州で最初の蜂起に失敗して以来、1911年3月の黄花崗での蜂起まで10回も蜂起してどれも失敗していた。辛亥革命が起きたときには、蜂起の失敗から日本に亡命していたのである。孫文の指導する興中会のほかにも、革命運動の集団はあった。湖南の華興会、浙江の光復会などはその有力なものである。こうした中国の革命運動を、日本の宮崎滔天らが援助したことはよく知られている。その宮崎の斡旋で、革命派が東京で合同大会を開き、1905年8月に中国同盟会が発足した。その代表には孫文がおさまった。

女傑詩人として知られる秋瑾は、浙江省の出身で、光復会に属していた。彼女は29歳のときに日本にやってきて、革命思想にかぶれたのだが、その思想を実践しようとした。31歳で中国にもどった彼女は、浙江省と安徽省で同時に蜂起をし、一気に革命の機運を醸成しようとしたのだったが、事前に官憲に察知されて蜂起は成功しなかった。これにかかわった彼女は潔く自決した。ときに1907年、辛亥革命に先立つこと四年前だった。

秋瑾は東京で魯迅と会ったことがある。革命に向かって意気揚々の彼女は、優柔不断な魯迅を「いくじなし」と罵ったようである。その魯迅は、文学を以て中国人民を啓蒙しようと考えていたのである。



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