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中国近代化への模索:近現代の日中関係


日清戦争で日本が勝ったことは、清国の有識者たちに深刻な影響をもたらした。かれらは伝統的に日本を二流の国として見下し、自分たちこそが世界の中心だと思い込んでいたのだが、その傲慢な考えが打ち砕かれたのである。一方、西洋列強による侵略も加速している。このままでは亡国の憂き目に見舞われないとも限らない。そんな危機感が清国の有識者たちをとらえるようになったのである。その危機感は、中国の近代化への模索をうながし、その近代化のモデルとして、日本への関心が強まっていった。

中国近代化への模索は、洋務とか変法という形をとった。洋務とは、西洋文化の利点を取り入れようとする動きだが、西洋一辺倒になるわけではなく、軍事技術など技術的にすぐれたものを取り入れる一方、政治や文化の面では中国の伝統を守ろうとするものだった。それを「中体西洋」と呼ぶ。日本の「和魂洋才」に似た考えだ。変法は、洋務より徹底していて、技術の変革のみならず、政治や文化の変革までを射程に収めていた。その言葉通り、従来の法制度を改めて、近代的な制度作りを目指していた。

変法運動のチャンピオンというべきは康有為である。かれは日清戦争以前から、清国の近代化の必要性とそれを実現するための制度改革について意見具申していた。戦後はそうした動きを一層活発化した。国レベルではなかなか取り上げられることはなかったが、地方レベルでは、変法への動きが見られるようになった。たとえば湖南省の変法運動である。湖南省では、1895年に巡撫になった陳宝箴が実学の普及や地方行政制度の改革に乗り出し、一定の注目を集めた。

戦後列強の侵略が強まると、康有為は皇帝(光緒帝)に上奏文を提出し、変法への強い呼びかけを行う。その中で康は「変法を以てすれば強く、守旧を以てすれば亡ぶ」と述べた。その志はついに光緒帝にも届いたが、守旧派の壁はあつく、なかなか変法の動きが具体化することはなかった。だが、1898年に守旧派の中心人物奕訢が死ぬと、一気に変法運動が具体化した。いわゆる戊戌の変法である。

戊戌の変法は、6月11日に光緒帝が「明らかに国是を定める」という詔勅を出したことから始まった。康有為の主導のもとで、憲法の制定や国会の開設といった制度改革や京師大学堂の設立など新たな人材養成策が追及されていった。しかいこの改革はわずか103日で頓挫した。守旧派がクーデタを起こし、光緒帝を幽閉したのである。康有為は側近の梁啓超とともに日本に亡命した。これを戊戌の政変という。

逃げ遅れた譚嗣同らは処刑された。その処刑をテーマとした小説に漠言の「白檀の刑」がある。この小説では、譚嗣同をはじめとした戊戌の六君子が残忍な方法で処刑されるさまが描かれている。その死は心ある中国人を憤慨させ、譚嗣同らは烈士として祀られるのである。

変法運動が挫折すると、より一層過激な革命運動が活発化する。その中心に躍り出たのが孫文である。孫文は広東省香山県で生まれ、12歳でハワイにわたり、そこで救国意識にめざめ、若くして革命思想を抱いた。日中戦争敗戦の年(1895年)には広州での武装蜂起を企て、失敗して日本に亡命していた。そんな孫文は、宮崎滔天や当山満など日本人との間に人脈を築いた。

孫文の名が世界中に広がったのは、1896年のことだ。その年ロンドンにいた孫文は、清国公司館に拉致された。これがイギリスの司法を無視しているというので大騒ぎとなり、孫文は清国のお尋ね者として一躍有名人になったのである。宮崎滔天らが、孫文ら中国の革命運動を支援したことはよく知られている。宮崎や頭山は日本の右翼の大物だが、その右翼がなぜ中国の革命家を支援したのか。そこには興味深い動きがある。

当時の日本ではアジア主義というべき動きが顕在化しつつあった。その中心になったのは近衛篤麿。後に総理大臣となる近衛文麿の父親である。近衛は西洋人による東洋の侵略に危機意識をもっており、その根底にある人種差別に強い反感をもっていた。そこで「最後の運命は、黄白両人種の競争にして、此競争の下には、支那人も日本人も、共に白人種の仇敵として認めらるるの地位に立たむ」と考えるようになった。アジアの諸国が共同して西洋に立ち向かうという思想は、いわゆる大アジア主義の先鞭というべきものだ。これは後に石原莞爾の世界戦争論に発展するのだが、それは脇へ置いて、こうしたアジア主義を宮崎や頭山も抱いており、それが彼らに孫文を支援させる動機となったのだと思われる。宮崎の場合にはそれに加えて、清国にとっては帝政が発展の足枷となっており、日本のパートナーとなるには、帝政を倒して新しい政体を作らねばならないとの思いから、孫文の革命運動を支援したのだと思われる。

近衛はそうした考えにもとづいて中国との深い関係を追及した。清国の留学生を積極的に日本に受け入れて、近代化のための人材育成に協力した。また講道館の創始者加納治五郎も中国人留学生の受け入れに協力した。以後多くの中国人留学生が日本を目指すようになる。その中には将来の中国の指導者になるものが排出したし、また魯迅のような文学者や秋瑾のような女革命家も含まれていた。

当時の日本には、近衛に象徴されるようなアジア第一主義の動きがあり、多方面にまたがって日本と中国との強力を追求する動きが広がっていたわけである。



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