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朝鮮をめぐる日中間の軋轢:近現代の日中関係


明治維新後の日本と朝鮮との関係は、日本における征韓論の高まりという形で始まった。征韓論を主唱したのは西郷隆盛だ。かれの理屈は、表向きには、日本の開国要求に韓国が応じないので、武力で応じさせようというものだった。日本が西洋列強に対して、武力で開国させられたと同じように、日本も武力を用いて朝鮮を開国させようという理屈である。表向きにはそういう理屈だったが、本音では別の意図もあった。武士が封建的特権を次々と奪われていく趨勢を前に、武士の存在価値を高めるためには、対外的な武力行使が一番効果的だと考えたのである。

明治新政府は、維新後まもなく朝鮮に対して正式な開国要求をしていた。従来徳川幕府は、対馬藩を通じて朝鮮との連絡を行っていたが、今後は日本国皇帝の代理人を釜山に駐在させ、相互の連絡にあたらせること、また釜山を日本との貿易港として解放すること、以上二点を要求したものだった。これに対して朝鮮側は、日本側が皇帝という言葉を使ったことに反発した。皇帝という名称は、朝鮮の宗主国である清国の支配者の名称であり、朝鮮の王よりも上位であることを意味していた。その名称を日本が使ったことは、朝鮮を目下に見ていることをあらわし、到底受け入れられないというのであった。釜山の開港も拒否した。日本はその後も二度にわたり開国要求を行ったが、朝鮮は断然受け入れを拒んだ。そういう事態を前にして、日本の開国要求を受け入れさせるには、武力の行使以外に有効な手はないというわけである。

西郷の征韓論は、海外視察から帰国した岩倉使節団のメンバーらによって否定された。そのため西郷は下野した(明治六年の政変)。だが明治政府は、朝鮮を開国させることをあきらめたわけではない。朝鮮は日本にとって、二つの点で重要な意義をもつと認識された。一つは安全保障上の意義、もう一つは貿易上の意義である。当時朝鮮にはロシアの影が迫りつつあった。もし朝鮮がロシアの影響下に置かれたら、日本としては国防上重要な脅威になる。それゆえ、日本として朝鮮を自国の影響下に置くことには重要な意義がある。また、拡大しつつあった日本の産業、とりわけ紡績業の発展にとって、朝鮮の輸出市場としての役割に期待が持てた。また、朝鮮には食料の調達先としての役割も期待できた。

日本は朝鮮の宗主国である清国にも、朝鮮の開国を促すよう求めた。しかし清国側は、朝鮮は清国の属国ではあるが、清国は朝鮮の内政には干渉しない政策をとっていると答えた。そこで日本は、いよいよ武力行使に踏み切る決断をした。1875年9月、軍艦雲揚を朝鮮西岸に派遣し、徴発したのである。その徴発に乗って朝鮮が攻撃してきたのに対して、日本側は反撃し、相手側に損害を与えた。これは、もし今後も開国要求を拒み続けるなら、日本は武力攻撃を仕掛けるという脅迫を意味していた。

この武力衝突を踏まえて、翌1876年日朝両国間に江華島条約が結ばれた。この条約によって日本は、釜山以下三つの港を開くことを約束させた。こうした日本の動きを見た清国は、日本に領土的な野心があるのではないかと、疑いの目を向けるようになった。日本は秀吉の時代に朝鮮に攻め入ったばかりか、明国の征服まで目論んでいた。また、徳川時代にも、林子平のように中国征服を公言する学者もいた。そのような攻撃的な本性のあらわれではないかと、日本を疑うようになったのである。

朝鮮をめぐって日中両国が武力衝突した最初の事例は、1882年の壬午軍乱にともなう両国の干渉だった。この軍乱は、待遇に不満を募らせた兵士たちによる突発的な事件という性格が強かったが、朝鮮王室がそれに対して混乱した対応をとったために、大事に発展した。高宗王は軍乱を非難したが、父親の大院君は支持した。それのみならず、高宗王から実権を奪い、自分自身が権力を掌握した。日本としては、高宗王が日本の開国要求に対して積極的であることを評価していた。また、清国の方では、合法的な王をクーデタによって失権させ、あまつさえ日清関係を悪化させたとして、大院君を非難した。その挙句大院君を捕らえて清国に連行し、三年間の軟禁状態に置いた。また、高宗王を復権させた。

この軍乱で、日本政府関係者が殺害されたことを理由に、日本は数百人規模の軍隊を派遣した。それに対して清国側は、日本の派兵に危機感を覚え、三千人規模の軍隊を派遣した。清国軍の司令官は、後に中国皇帝を名乗る袁世凱である。袁世凱はその時まだ23歳だったが、有能振りを李鴻章に認められ、李鴻章の軍隊である淮軍の司令官であった。かくして日清両国の軍隊が衝突した。清国軍のほうが多勢だったということもあるが、袁世凱がこの戦いを制した。

清国としては、朝鮮に軍事介入するのは、1636年以来のことだった。日本による朝鮮への介入があまりにも露骨になってきたので、それを座視することは、朝鮮を日本に奪い取られることにつながるという危機感を抱いた結果だと思われる。これに前後して、清国は西洋列強に働きかけ、朝鮮が清国の属国であることを、国際社会に認めさせる努力をしている。なんとかして、朝鮮への清国の影響力を保とうとしたわけである。

1884年には、甲申政変と呼ばれるクーデタ未遂事件が起こった。これは、朝鮮の近代化を追及する金玉均が、守旧的な政権を倒そうとして起したクーデタ未遂事件である。このクーデタは、数名の政府高官を殺害し、臨時政府の樹立を宣言したが、わずか三日で鎮圧された。金玉均は、日本の福沢諭吉らともつながりがあり、かねてから朝鮮の近代化が必要だと主張していた。クーデタを起すについては、日本の後押しを期待していたフシがあるが、日本はかれのクーデタ計画に手を貸さなかった。それでもクーデタを決行したのは、折からベトナムをめぐって清国とフランスとの戦争が勃発し、清国の勢力がそちらに注がれるのを見て、いまがクーデタのチャンスだと判断したためである。

クーデタの鎮圧を主導したのは袁世凱率いる清国軍である。袁世凱は、1882年の壬午軍乱後も漢城(ソウル)に残り、朝鮮や日本の動向に眼を光らせていた。かれはつかさずクーデタの武力鎮圧に乗り出したが、その際日本側とも交戦状態になり、日本兵38名が死亡した。クーデタが失敗したことで、金玉均は仁川から日本船に乗って、日本に脱出した。

翌1885年4月、クーデタ未遂に伴う武力衝突等の事後処理をめぐって、日清両国間に天津条約が結ばれた。この条約によって、日本軍、清国軍のいずれもが四ヶ月以内に朝鮮から撤退すること、将来、日清一方の国が朝鮮に派兵するなら、もう一方の国も派兵できることが定められた。

かくして、朝鮮は、日清両国にとって対立の火種としてくすぶり続けた。その火種から大きな火が燃え上がり、やがて日清戦争を引き起こすことになるわけである。



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