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雨月:西行伝説


前回紹介した「江口」や、その前の「西行桜」のほかに、能には西行をフィーチャーした作品が結構多くある。それほど西行は、物語の世界と馴染むところがあると、日本人がとらえていたことの一つのあらわれだろうと思う。「雨月」も、西行の旅の僧としての漂泊性を強調した作品で、その点では「江口」と似ているところがあるが、こちらは作者が金春善竹ということもあって、観阿弥の「江口」とは、やはり異なった雰囲気をかもし出している。善竹はひたすら幽玄に拘った人で、その点ではリアルな現実を重視した観阿弥とはちがう。その違いが、「江口」と「雨月」の作風の違いにも反映している。「江口」のほうは西行と遊女との機知に富んだ歌のやりとりを強調しているのに対して、「雨月」のほうは、住吉大明神を登場させたりして、かなり幽玄の趣に拘っている。

能「雨月」では、住吉明神へ参詣途上の西行が、水辺の賎家へ一夜の宿を求めると、そこには老人夫婦が住んでいて、あまりに見苦しいので宿は貸せないという。そして自分たちは、それぞれ月と雨が好きなので、翁のほうは雨の音を楽しむために軒を板で葺こうと願い、姥のほうは月影を愛でる為に軒を塞ぐのを惜しむのだといって、「賎が軒端を葺きぞわずらふ」という句を出し、それに上の句をつけてくれたら宿を貸そうと言う。そこで西行が「月は濡れ雨はたまれととくかくに」とつけたところが、夫婦がそれに感じて宿を貸した上で、秋の夜長を語り合い、その挙句に自分たちは住吉明神の化身なのだと名乗り、その後住吉明神の宮人が西行の前に現れて舞を舞うということになっている。

和歌の機知に富んだやりとりを別にすれば、これは住吉明神が西行の歌に感心して、その褒美として舞を舞って見せるというもので、能によくあるパターンの一つだ。神が芸能を寿ぐというパターンで、切能と呼ばれる一連の作品に見られるものだ。この作品の場合には、西行は歌の名人として、住吉明神に寿がれる対象とされており、ある種の聖性を持たされているわけである。ただの歌人ではなく、神に祝福された歌人、聖なる人というイメージが、この能の中の西行にはただよっているわけだ。

善竹はこの能を、「撰集抄」の記事をもとに作ったと思われる。「江口柱本尼連歌事」と題した話で、こちらは住吉参詣の途上江口の里を通りがかった西行と連れの法師が、遊女のなれの果てと思える尼の住む家に一夜の宿を求めるということになっている。その尼は、家に雨漏りがしているために、板をひらさげてあちこち行ったりきたりしていたのだったが、それを見た西行が「賎がふせやをふきぞわずらふ」と口ずさんだところ、尼が板を投げ捨てて、「月はもれ雨はたまれと思ふには」とつけ、それがきっかけでお互い心を許して語り合った、という内容の話である。上下それぞれの句を読んだものが、主客逆転しているわけである。またもとの話では尼だったものを、能では住吉明神の化身たる老夫婦に変えているわけだ。

「撰集抄」の話は、遊女でも心がけ次第では成仏できるということを、尼と西行との歌のやりとりを交えて教訓めいて語っている。それに対して、善竹の能は、芸能としての和歌をことほぐ話になっている。法話らしい教訓から、芸能の世界の賛美へと、着眼点がずれていると指摘できる。いづれのケースでも西行は、物語の中心にいて、日本人の想像力に訴えかけるという役目を担わされているわけである。


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