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善通寺:西行を読む


讃岐の白峰で崇徳院の墓に詣でた西行は、その脚で善通寺に赴いた。弘法大師が生まれたところである。高野山で真言仏教の修行をしている身の西行としては、是非とも行かねばならぬところだったと思える。西行は単にこれへ参詣したばかりでなく、その裏手の曼荼羅寺の行道所のあたりに庵を結び、そこで一冬を過ごしている。西行としては、修行としての意味とともに崇徳院の怨念を祈り鎮める意味もあったと思われる。

善通寺のある場所は、土地の豪族であった空海の父祖の屋敷があったところである。空海が生まれた家屋を誕生寺と称し、多くの信者の信仰を集めた。いまでも四国巡礼の最大の拠点となっている。西行が訪れたときにも、巡礼の聖地になっていたものと思われる。

「山家集」には西行が善通寺に滞在中詠んだ歌が数首収められている。まず、誕生寺を訪ねた際の歌、
「大師の生まれさせ給たる所とて、めぐりのし廻して、その徴に松の立てりけるを見て  
  あはれなりおなじ野山に立てる木のかかる徴の契りありける(山1369)
これは、大師誕生の徴を見て詠んだものだが、あまりすぐれたものとはいえない。松の木の周りに誕生を記念する徴しがかかっているのを見て、感心しているだけである。

誕生寺裏手の曼荼羅寺については、その峻厳さが強調されている。
「曼荼羅寺の行道所へ登るは世の大事にて、手をたてたるやうなり、大師の御経書きて埋ませをりましたる山の峰なり、坊の外は一丈ばかりなる壇築きて立てられたり、それへ日毎に登らせおはしまして、行道しをりましけると申伝へたり、巡り行道すべきやうに、壇も二重に築き廻されたり、登るほどの危ふさ、ことに大事なり、構へて這ひまゐり付きて
  めぐり逢はんことの契りぞ頼もしき厳しき山の誓ひ見るにも(山1370)
大師もこの厳しい山を登りながら行道にいそしんだが、自分もまた大師にならって厳しい行道に励みたいと、修行への意思を語っているわけであろう。

この曼荼羅寺のある山に西行は庵を結んだ。その庵からは瀬戸の海が見えた。その気色を西行は次のように詠っている、

「同じ国(讃岐)に、大師のおはしましける御あたりの山に庵結びて住みけるに、月いと明くて、海の方曇りなく見えければ
  曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける(山1356)
海が見えるところだから、恐らく風が強かったに違いない、そこに庵を結んだとあるが、季節は厳寒に向かう折である。粗末な小屋で一冬を過ごすことは、瀬戸内海の環境からしても厳しかったに違いない。

この歌に続いて「山家集」は、次の歌を載せている。
「住みけるままに、庵いとあはれに覚えて
  今よりはいとはじ命あればこそかかる住まひのあはれをも知れ(山1357)
こんなにつらい庵の生活も、命あればこそできるのだと、積極的な気分で修行に立ち向かっているさまが浮かび上がってくるようだ。

また、この歌に続けて
「庵の前に松の立てりけるを見て
  ここをまたわれ住み憂きてうかれなば松はひとりにならんとすらん(山1359)
という歌が載せられている。これはいずれ自分がこの庵を立ち去ったならば、松だけが一人でとり残されることへの、同情のような気持を歌ったものだ。松に同情するところがいかにも西行らしい。  


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