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陸奥への旅(二)富士の煙:西行を読む


清見潟を過ぎると、やがて左手に富士が見えてくる。「西行物語」は、業平の歌「時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ」に言及しながら、富士の威容を叙述する。「遥かに富士の高嶺を見上ぐれば、折知り顔の煙立ちのぼり、山の半ばは雲に隠れ、麓に湖水をたたへ、南には効原あり、前には蒼海漫々として、釣漁の助けに便りあり」

このあと、「都を出でて、多く山川江海をしのぎし旅の憂さも、ここにて忘るる心地して覚えける」として、次の歌を載せている。
  風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬわが思ひかな(西85)
  いつとなき思ひは富士の煙にてまどろむほどや浮島が原(山1307)
一首目は西行法師家集の「恋」のなかに、二首目は山家集のなかの「恋歌百首」のなかに含まれているから、もともとは恋をうたったものなのだろう。だが、両方とも富士の煙にことよせて、恋の嘆きを歌っているところから、まだ若い西行が、世俗の煩悩を捨てきれないまま、陸奥への旅の途中に富士の煙を見て感慨を催したと受け取れる。

富士の煙のように行方も知らぬ我が思いとは、自分の恋心を西行がもてあましているということだろう。西行の恋の相手が誰であったかを脇においても、この頃の西行がまだ、失恋の痛手から回復していなかったことを、この歌は物語っているといってよい。また二首目に出てくる浮島が原とは、富士東方の愛鷹山の裾野だが、浮島の浮きに、富士の煙と自分の思いを重ね合わせたものであろう。

駿河を過ぎた西行は、足柄を越えて相模に渡った。その足柄では、藤原実方を思い出しながら、次の歌を歌ったと「西行物語」は語る。
  山里は秋の末にぞ思ひ知る悲しかりけり木枯の風(山487)
この歌は、山家集には「秋の末に法輪に籠りてよめる」という詞書がついており、本来陸奥の旅とは関係がないのだが、「西行物語」の作者が、ここにわざとはさんだのであろう。歌の趣旨は、秋の末になって吹く木枯らしに、悲しい思いがいやましに悲しくなったというものである。なにが悲しいのか、それについては言わない、とにかく悲しい思いを察して欲しい、そう詠うのである。

相模に超えた西行は、砥上原というところで鹿の鳴き声を聴いた夕暮れに、沢辺で鴫の飛び立つ音を聴いて、次の歌を読んだ。
  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ(山470)
この歌は西行の歌のなかでも、もっともよく知られたものである。次の二首とともに、秋の夕暮れを歌った三夕歌に数えられている。
  さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ(寂蓮)
  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ(定家)
これらの歌と比較しながら西行の歌を鑑賞すると、とかく美的な要素ばかりが強調されやすいのであるが、この歌はもともと、美的な効果をねらったものではなく、心の迷いを嘆いて見せたものなのである。

心なき身、というのは、出家して俗世界から縁を切り、この世のことがらを超越した境地という意味のことばである。そうしたものとして、感傷的な気分とは無縁なはずの自分が、鴫立つ沢辺の秋の夕暮れを見て、はからずも心を動かされてしまった。これは、出家の身として実に面目ない、そういう気持を歌ったものだ。それに対して、寂蓮や定家の歌は、美しい景色を見て心を動かされた、という単純な気持を詠ったに過ぎない。

富士の煙の歌といい、秋の夕暮れの歌といい、出家の身として修行の旅にある自分が、まだまだ俗世間への未練を捨てきれないでいることについて、深い反省をこめた歌なのである。


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