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秋の虫:西行を読む


秋風と並んで秋の到来を感じさせるものに秋の虫がある。蝉の声がだんだん弱まってついに聞こえなくなる頃、それに代わって虫の声が聞こえ出す。それが秋の風の吹き始める頃にあたるので、あたかも秋風に乗って秋虫の声が聞こえてきたかの感じを抱かせる。

秋の虫といっても、こおろぎ、鈴虫、松虫と多彩な声を聞き分けることができるが、万葉時代の人々は、秋の虫を十把ひとからげにして「こほろぎ」と呼んでいた。だから彼らが虫の声を聞き分けることはなかったと思う。

西洋人は蝉や秋虫の声を雑音としか受け取らないというが、万葉時代の日本人は、雑音とまでは言わぬとも、あまり虫の声に拘らなかったようだ。その徴に、万葉集の中で「こほろぎ=虫」を歌った歌は少ない。その中からいくつか取り上げると、
  庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり(万2160)
これは、にわか雨が降って濡れた庭の草陰で虫が鳴いている、その声を聞くと秋がすっかり深まったのを感じる、と歌ったもので、立秋の頃を歌ったものではなく、虫が秋の深まりを象徴するものとして捉えられている。

また、次の歌
  夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこおろぎ鳴くも(万1552湯原王) 
これは、夕月夜に心も萎れるばかりに露が降りた庭にしきりと虫が鳴くのが聞こえる、と歌ったもの。「心もしのに」は、白露とこほおろぎの両方にかかっている。ここで鳴いている虫の声は、特定の種類の虫ではなく、さまざまな虫の声が入り混じり、シンフォニーのような調和をかもし出していると捉えることができよう。虫の声を壮大な音楽に喩えるのは、やはり日本人の感性といえようか。そういう感性がすでに万葉時代にあったということだ。

古今集の時代になると、虫についての感性はいっそう繊細になり、虫を「こほろぎ」で総称するのではなく、きりぎりすとか松虫とか鈴虫といった具合に、種類に応じて聞き分けるようになった。その例をあげると、まず次の歌
  きりぎりすいたくななきそ秋の夜の長き思ひは我ぞまされる(古196藤原忠房)
これはキリギリスの声に人間の切ない思いを重ねて歌ったものだ。ここでいうキリギリスは今日でいう蟋蟀(こおろぎ)にあたる。虫の総称であったこほおろぎからまずキリギリスが分化したわけだ。

また次の歌、
  君しのぶ草にやつるるふるさとは松虫のねぞかなしかりける(古200)
これは夫を待ちわびる妻の心を松虫にかけて歌ったもので、松虫には「待つ」の意味が込められている。このほか、「しのぶ」に思い偲ぶという意味と偲ぶ草をかけ、「やつるる」に妻の心とふるさとをかけるといった具合に、この歌には古今集の歌としてはかなり技巧的なところがある。

では西行は秋の虫をどのように歌ったか。いくつか例をあげると
  秋の野の尾花が袖に招かせていかなる人を松虫の声(山453)
  きりぎりす夜寒になるを告げがほに枕のもとに来つつ鳴く也(山455)
  草深み分け入りて訪ふ人もあれやふりゆく跡の鈴虫の声(山460)
  うち過ぐる人なき道の夕されば声にて送るくつわ虫かな(山463)
松虫、きりぎりす、鈴虫、くつわ虫といった具合に、一応秋の虫のメニューが一そろい揃っている。その歌い方もより繊細になっている。きりぎりすが自分の枕もとに来て、夜寒になると告げているようだと歌うところなどは、キリギリスに感情移入した新しい歌い方だといえる。

西行のほぼ同時代人である新古今集の歌人が虫を歌った例として、次のものがある
  跡もなき庭の浅茅に結ぼほれ露の底なる松虫の声(新351式子内親王)
この歌は松虫を、人を待つことの隠喩として扱っている。そこは西行と共通するところだ。少し時代が下ると松虫は同性愛の隠喩としても用いられるようになるが、それも松=待つからの連想かもしれぬ。


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