日本語と日本文化


ザ・議論:井上達夫・小林よしのりの対談


憲法学者の井上達夫はリベラルを自称し、漫画家の小林よしのりは本物の保守を標榜しているそうだ。その二人が対談して、意気投合した様子がこの「ザ・議論」という本からは伝わってくる。普通の理解では、リベラルと保守は相互に相いれない対立概念だと思われているから、それぞれを体現した両者が意気投合することは奇異に映る。しかしよくよく考えてみれば不思議ではない。

井上が考えているリベラルというのは、どうも伝統的なリベラリズムをさしているらしい。今ではリベラリズムの概念が随分と拡散してしまい、なんでもありといった様相を呈しており、そこから国家の介入を是認するような政策までリベラルの専売特許のような観を呈するに至ってしまったが、井上に言わせれば、それはリベラルの本義から外れている。リベラルの本義は伝統的な意味でのリベラリズムにあり、それは究極的には、政府の権力よりも個人の自由を大事にする立場だった。自分はそうした伝統的なリベラリズムの立場に立っているのであって、今日新聞や学者たちが使っている意味でのリベラルとは必ずしも一致しない。井上の基本的な立場は、どうもそういうことになるらしい。

一方小林のほうは、いわゆるネトウヨの元祖のように言われているが、小林本人としてはそう呼ばれることを不本意に思っているらしい。自分の立場はあくまでも庶民感覚を重んじることにあるので、そういう意味では伝統的な意味での保守というべきである。ところがネトウヨは、権力と一体となって、権力に敵対するものを敵として叩くことに存在意義を見出しているようである。自分はそんな姑息なことはしない。というより、自分は権力に対して非常に懐疑的である。というのも、漫画家というものは時として権力を茶化すこともあるが、それはかなりの緊張を伴う行為なのである。自分は権力を怖いと思っている。権力が自分のようなものを押しつぶすのはいとも簡単なのだ。それゆえ自分は、権力を気にせずに自由に生きられることが一番だと思っている。その意味で自分は個人の自由にこだわるリベラルと基本的に異なる立場にいるわけではない。

こういうわけでこの二人は、権力よりも個人の自由を重んじる点では、どちらも伝統的な意味でのリベラリズムの立場に立っているわけである。意気投合するのも無理はないのである。

その二人がこの本の中で、天皇制、歴史問題、憲法九条について議論した。それぞれのテーマにおける二人の主張の要点と、その現実的な意義について確認しておきたい。

まず天皇制。この問題についての井上の立場は、天皇制はいずれ廃止すべきだというものだ。その理由として井上は大きく二点指摘する。一つは天皇制が抑圧のシンボルとなっていること。それを井上は「天皇制は大衆的な同調圧力を拡大する道具になってしまう」と表現しているが、そうした同調圧力の典型を井上は昭和天皇崩御の際の「御不例」騒ぎに見たという。あの時は日本中が委縮して、日頃リベラルな発言をした学者でも沈黙せざるをえない雰囲気が生まれた。その雰囲気を井上は我慢できないと思い、それを天皇制が強いていることに、自分は天皇制への疑問を強くした、ということらしい。

もう一つは、天皇個人と天皇制とは一応切り離して考えねばならないが、その場合に天皇制というのは、天皇の人格を否定するような役割を果たしている。天皇には基本的人権もくそもなく、天皇をやめる自由もない。奴隷といってよい。少なくとも、天皇をやめる自由くらいは認めてあげてもよいと思うが、天皇制の論理にはそうした選択肢はない。天皇制とは非人間的な制度なのである。したがって天皇制は政治的制度としては廃止すべきだ、というのが井上の考え方である。

これに対して小林は、権威としての天皇制は日本の政治の安定化をもたらしていることを理由にして、天皇制の存続を主張する。天皇制があることで、権威と権力とがわけられ、政治的な安定が保証される。権威と権力が一体化すると、非常にあぶない。とくに日本の場合には、ただでさえ同調圧力が強いのであるから、権力が権威と一体化するとどこまで暴走するかわからない。そういう意味で天皇制は今後の日本にとっても必要なものだ。そう小林は主張する。

井上が言うように、天皇から政治的な性格をはく奪し、民間に解き放つと、天皇をかついだ怪しげなカルトが強大化し、始末におえない事態が発生する可能性が高い。天皇には歴史的に培われた権威があるが、それには宗教的に利用されやすい部分がまとわりついている。そうした天皇の持つ巨大な力を制度的に封じ込めるものとしても、天皇制には十分な存在理由がある。要するに天皇制は日本を一つにまとめるための権威として、政治的な権力とバランスをとるべきだというのが小林の基本的な考え方のようである。

井上は、たしかに権力とバランスをとれる権威が必用なのは認めるが、それはなにも天皇制のような形をとる必要はないと言う。井上によれば、そうした権威は、立憲主義や法の支配と言った抽象的な原理が果たすべきだ、ということになる。

それに対して小林は、「われわれがそうした『原理』に権威を感じるなんてことが、本当にあるんですかね」と言って、疑問を呈している。小林はまた、「やはりわしは、天皇制は日本という国の智慧であり、国柄だと思うんですよ、抽象的な理念に権威を感じるというのは、どうしてもわしの中ではしっくりしない」とも言って、天皇制が日本の国柄であることを強調している。小林の中では、天皇制のない日本は、イメージとして浮かばないようである。

そんな小林でも、天皇制が暴走する危険は認めている。小林は言う、「民主主義の暴走は天皇がいても止められないとわしは思います。昭和天皇がいたときですら、国民はみんな万歳状態になってしまって、軍部を支持して突っ込んでいったでしょ。あれは民主義の結果ですよ」

つまり小林は、世の中が変な方向に動いていくとき、その原因は殆どの場合民主主義にあるのであって、天皇制には責任がないという見方に立っているわけだ。民主主義の暴走という点では井上も大きな異論はないようだ。彼らにとって大切なのは民主義ではなく、上述したような意味での伝統的なリベラリズムにあるようなのだと伝わってくる。



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