日本語と日本文化


小泉純一郎の日本型ポピュリズム


大嶽秀夫氏は「日本型ポピュリズム」のチャンピオンとしての小泉純一郎を、アメリカのレーガン元大統領と比較しながら考察している。もっともこの本(「日本型ポピュリズム」中公新書)が書かれたのは2003年5月以前のことであり、小泉は首相として任期半ばであった上に、彼のポピュリストとしての特徴は、2005年の郵政民営化選挙の際にもっと凝縮された形で発揮されたことからすれば、中間的な総括としての限界を持たざるを得ないところだが、それでも、小泉が体現していた日本型ポピュリズムの特徴をよく捉えているといえる。

ポピュリズムには二つのタイプがあると氏はいう。下からのポピュリズムと上からのポピュリズムである。下からのポピュリズムはアメリカの政治的な伝統の中で、人民党など、民衆の意思を体現する運動という形をとった。それは往々にして、大衆迎合的な色彩を帯びる。一方上からのポピュリズムはラテンアメリカの歴史において、大衆的支持を得た権威主義体制として現れたのが典型的な例である。それは扇情的な大衆動員という色彩を帯びる点で、ファシズムとの近縁性を感じさせることもある。学者によっては、この形のポピュリズムをデマゴギーと呼ぶ者もいる。

この両者のポピュリズムは近年次第に収斂しつつあると考えられる。それは、いずれの形のポピュリズムも次のような特徴を共有していることから来る自然の趨勢だといえる。(これらの特徴は、アメリカの政治学者ケイジンの研究をもとに導き出されたものである。以下は大嶽秀夫「日本型ポピュリズム」から引用)

"ポピュリズムとは、「普通の人々」と「エリート」、「善玉」と「悪玉」、「味方」と「敵」の二元論を前提として、リーダーが「普通の人々」の一員であることを強調すると同時に、「普通の人々」の側に立って彼らをリードし、「敵」に向かって戦いを挑む「ヒーロー」の役割を演じてみせる、「劇場型」政治スタイルである。それは、社会運動を組織するのでなく、マス・メディアを通じて、上から、政治的支持を調達する政治手法のひとつである。"

ロナルド・レーガンは、ここで定義されたようなポピュリスト的な政治スタイルを存分に発揮した政治家だった。彼はアメリカ人の大多数を占める「普通の人々」が政治的に無視されてきたと語り、彼らを無視する政治的なエリートを敵として、普通の人々の代表者として戦う姿勢を示したわけである。こうしたやり方は、ブッシュやクリントンも引き継いだ。彼等もまた、「普通のアメリカ人」と「ワシントン・エスタブリッシュメント」との二元論に依拠して、広範な大衆の支持を動員したのである。

そのレーガンと比較しながら小泉純一郎のポピュリズムの特質を分析すると次のようになる、と氏はいう。

第一に、レーガンの政策の軸になっていたのは、新自由主義であった。すなわち、小さな政府と市場への信頼である。小さな政府は、官僚などの既存のエリート勢力を敵にして、普通のアメリカ人の利益を守るという主張につながるものだ。それに対して小泉も。「郵政民営化」などに関して、小さな政府を主張したが、レーガンほど政策が明確であったわけではないと氏は言う。レーガンの場合には、敵は官僚と並んで労働組合などの左翼勢力にも向けられた点で、右翼的な色彩が強かったわけだが、小泉にはレーガンと比べて左翼との対決姿勢が弱いというわけである。それは小泉の立場が新自由主義的思想体系の産物ではなく、官僚批判と現実の財政危機から発したものであり、具体的な処方箋のレベルを出ていないことによるという。

第二に、小泉のポピュリズムはレーガンと比べて扇情的な面が少ないという。レーガンはアメリカが神によって選ばれた国であるというアメリカ人特有の宗教意識に訴えかける一方、外部の敵の脅威を強調してナショナリズムを煽った。小泉には日本人の自尊心を煽るようなポジティブな要素は少なく、敵を攻撃するだけのネガティブなポピュリズムとしての面が強いという。

第三に、同じ劇場型の政治といっても、レーガンと小泉にはかなりな相違がある。レーガンは俳優出身ということもあって、雄弁で話もうまく、「女性的」なイメージを併せ持ったリーダーだった。小泉の方は、其れとは対照的に寡黙で、男性的なイメージが強かった。またレーガンが大衆の支持を獲得するために入念で科学的な準備をしていたのに対して、小泉にはそのような努力の形跡は見られない。小泉は突如、思いがけずに大衆の人気を獲得したのである。

こうした相違は、小泉自身のキャラクターとも大いに関係しているだろう。氏はそんな小泉らしいところをいくつか抽出している。

まず、先の第三の点と関連するが、小泉は寡黙で、何を考えているのかわからないところがあったといわれるように、思想・信条をとらえる手掛かりに乏しいのであるが、言うこと為すことが浪花節的だというのである。これは小泉の家系と関係があるのかもしれない。

浪花節的だとは、義理人情に篤いということであるが、小泉にはそうではないところもある。小泉は人間関係については意外とドライな面を併せ持っていた。

次に、小泉は感情をかなりストレートに表現する政治家である。逆に言うと、感情をコントロールすることが苦手である。そのため、言動に情緒的な色彩を伴った。

このことの裏返しだが、小泉は複雑な社会現象を、抽象的なレベルで体系的に思考する能力が弱い。そのため、政治問題を、極めて単純なレベルでとらえる。

小泉の持つこうした「浪花節的」、「感情的」、「単純」といった特質が、大衆受けする手段として機能することはいうまでもない。

最期に小泉の信条について。普通ポピュリストと呼ばれるような政治家は、伝統回帰的でタカ派的なイメージが強いものだが、小泉は必ずしもそうではない。周辺諸国の反発を無視して靖国神社に参拝し続けたことは、小泉の伝統尊重を物語る例だと思われないでもないが、それ以外のイシューで小泉が伝統主義者だったと強く思わせるような証拠はない。また外交の面でもタカ派ぶりを発揮したという形跡も殆どない。その辺のところを総括して、氏は次のように言っている。

"彼の信条には、日本の美風、あるいは皇室への敬愛といった伝統主義の要素は弱いし、防衛政策でも、教育政策でもとくに右翼的ではない。ピル解禁への反対も保守政治家がしばしば依拠し、唱える公序良俗論など伝統主義を根拠とする主張ではない。その意味で、彼のタカ派的主張は、根の浅いものである。




  
.


検     索
コ ン テ ン ツ
日本神話
日本の昔話
説話・語り物の世界
民衆芸能
浄瑠璃の世界
能楽の世界
古典を読む
日本民俗史
日本語を語る1
日本語を語る2
日本文学覚書
HOME

リ  ン  ク
ブログ本館
万葉集を読む
漢詩と中国文化
陶淵明の世界
英詩と英文学
ブレイク詩集
マザーグースの歌
フランス文学と詩
知の快楽
東京を描く
水彩画
あひるの絵本




HOME日本の政治





作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2013
このサイトは作者のブログ「壺齋閑話」の一部をホームページ向けに編集したものである