日本語と日本文化


橋下イズムの精神構造


雑誌「世界」の7月号は「橋下維新」と題して大阪維新の会を率いる橋本徹氏の政治手法について特集を組んでいる。副題に「自治なき改革の内実」とあるとおり、批判的な記事を集めている。5月号では「教育に政治が介入するとき」と題して、橋本氏による教育への露骨な政治介入を批判する特集をしていたから、リベラル派で鳴らす「世界」としては、かなりな身の入れようだ。

筆者もこれまで、橋本氏の政治手法については、危うさを感じていた一人だが、まだ地方を舞台にした話だし、それも関西でのこととあって、あまり大げさには受け取っていなかった。まあ、タレント政治家による一過性の現象くらいにしか受け止めてこなかったたわけだ。しかし、最近の橋本氏を巡る状況と、それが日本の国政にも大きなインパクトを与えつつあるのを見ると、もっとしっかり見ておかねばならぬと、やっと思うようになってきた。

「世界」7月号の特集は、橋本氏の掲げる政策に関する批判と、彼の政治手法の分析、また彼を支持する人たちの特徴などについて分析する記事を乗せている。その中で、筆者が特に注目したのは、松谷満氏の「誰が橋下を支持しているか」だった。

筆者もそうだったが、これまで橋本の政治手法は基本的にはポピュリズムであって、彼の呼びかけに応えて彼を支持する人々は政治の現状に不満を持っている階層だとする意見が強かったように思える。この考え方によれば、国民は長い間の自民党政治を終わらせて、やっと政権交代を実現させ、民主党に権力を与えてやったのに、その民主党が国民大多数の期待に応えないばかりか、それに反することばかりやっている。そんなこんなで欲求不満がピークに達している有権者が、第三の極としての橋下に期待するようになった、橋下もまた、そうした有権者の気持ちを汲んで、わかりやすいスローガンを掲げることで支持を拡大してきた、そんな筋書きを思い浮かべる人が多かったのではないか。

この筋書きによれば、橋下氏を支持する人々は、政治の現状に強い不満を持っている人々、とりわけ格差社会といわれる現在の日本社会で、いわゆる「負け組」に属するようになった人々や、既存の政治的価値に疑問を抱いている人々なのではないか、との推測がなされうる。

しかし世論の動向を注意深く分析すると、必ずしもそうではないと松谷氏はいう。経済的なステータスとの関連で言うと、今現在ある程度経済的に成功し、これからも更なる上昇志向のある人ほど、橋下氏を支持する割合が高い。つまりこれまでなら自民党を支持していたような人が、橋下氏を支持しているのだという。

政治的な価値観との関連で言っても、愛国心を重視する(ナショナリズム)、格差や競争により肯定的である(新自由主義)、そうした傾向の強い人ほど、橋下氏を支持しているのだという。つまり橋下氏を支持する有権者たちは、単に雰囲気に流されてだとか、見かけの派手さに惹かれてだとかいったことではなく、そこには明確な政治的価値観が介在しているというのである。

また、橋下氏が掲げる政策の中で、支持者がもっとも評価しているのは、公務員バッシングである、という。公務員はいうまでもなく、日本中が不況のおかげでひどい目に会っているのに、ひとりだけ特権に胡坐をかいて悠然としている、そんな風に見られがちだ。いまや公務員は、ポピュリズムの引き立て役になっている、と松谷氏は言う。橋下氏はそこに目をつけて、民衆の公務員への「ジェラシー」を政治的なエネルギーとして利用している、というわけである。

こうしてみると、橋下氏は民衆の中にある政治的な傾向を敏感に感じ取り、それを言葉にすることによって支持を勝ち取っている、そういえると氏はいう。「橋下が支持されるのは、有権者<マジョリティ>の意識をそのまま肯定するような主張を彼が行い、それがノーマルに受容された結果に過ぎない」

これは、橋下氏をポピュリストとして位置付ける見方だと言えよう。ポピュリストとはいうまでもなく、大衆に迎合することで大衆の支持を拡大しようとするやり方である。これに対して橋下を、ポピュリストではなくデマゴーグだとする見方もあるが、それについては、ここではふれない。

ポピュリストにせよ、デマゴーグにせよ、指導者と支持者との間の相互作用に着目した政治指導者像の類型であるが、橋下氏の場合には、支持者との間でどんな関係が見られるのか。これを考察したのが想田和弘氏の「言葉が支配するもの〜橋下支持の謎を追う」である。

想田氏が気になる傾向としてあげているのは、多くの橋下支持者が、「橋下氏の使う言葉を九官鳥のようにそっくりそのまま使用すること」なのだそうだ。たとえば、つい最近話題になった「毎日放送記者の糾弾事件」をめぐって、橋下氏がこの女性記者を次々と汚い言葉で罵る場面がネットで流れると、橋本氏の支持者たちは橋本氏が女性記者に向かって投げつけた言葉をそのまま繰り返して、橋下氏と共にこの女性記者を一斉に罵倒した。彼等は、他人を罵る時にも、自分の言葉ではなく、リーダーの言葉をそのままおうむ返しに発するのである。

何故こうなるのか。想田氏は、橋下氏の発する言葉には特別な「感染力」があるからだと見たてている。橋本氏の支持者たちは、橋本氏の発する言葉に感染して、プロパガンダ・マシーンよろしく連呼しているに過ぎないというわけである。

橋本氏はこの感染力を、民衆の理性に向かってではなく、民衆の感情に訴えることによって、獲得しているのだと、想田氏はいう。つまり彼は、「民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度だが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ」と確信しているという。

橋下氏は、民衆の感情を統治することで、自分の政治的立場を貫徹しようとする。橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、「感情を統治されている」事態に自らを置く。こういう構図がなりたっているというのだ。

ところで想田氏はこのところ、ツィッターを通じて橋本氏を批判する過程で、橋下氏の支持者との間で随分やりとりしてきたそうだ。だが、それはとても議論にならなかった。氏はまさに「馬の耳に念仏」といった空虚さを覚えて来たと言うことだ。想田氏の発する言葉が、橋下氏の支持者たちには全く届かないというのだ。

たとえば、「思想良心の自由を守れ」とか「恐怖政治だ」とかいう言葉を浴びせかけても彼らはびくともしない。彼らにとっては、「民主主義」「独裁」「ヒトラー」「人権」といった言葉は、もはや何らの意義も持たない。それよりも、「公務員は上司の命令に従え」といったフレーズの方に心を動かされる。そういう人たちとの間には、有意味なコミュニケーションが成立しないというのだ。

ここから見て取れるのは、橋下氏と言うリーダーによる一方的な「感情の統治」であるように見えるが、必ずしもそれだけではないだろう。いくら橋下氏といえども、民衆の心に訴えかけるような言葉を発しない限り、民衆を統治することはできない。橋下氏が民衆を統治していられるのは、民衆の心に中にある願望やら信念やらを汲み上げて、それを言葉として発している限りにおいてである。だから橋下氏と彼を支持する民衆との間には堅固な共犯関係が成立しているといえる。

一部の左翼的知識人は橋下氏を評してポピュリストだとか、デマゴーグだとか、甚だしきはファシストだとか言うものがいるが、そのいずれにも共通しているのは、橋下氏自身にある独裁者的傾向への懸念だ。橋下のやり方はファシズムを思わせる、だから橋下は危険だ、というのはたやすいが、そんな橋下氏のパフォーマンスを支えているのは彼を支持する数多くの民衆なのであり、その民衆との共犯関係のなかでのみ、橋下氏の政治的影響力も保障される、ということを忘れてはならない。

この辺のところをきちんと押さえておかなければ、いくら声高に橋下批判をしても、それは的を外したことになりかねないだろう。

橋下イズムというものがもしあるとして、それを正しく理解しようとするなら、橋下氏本人のみならず、彼をとりまく膨大な民衆の精神構造とも言うべき部分に踏み込む必要がある。




  
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