日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




説経の世界:歴史と作品


今日、我々現代人が説経を聞く機会は、全くといっていいほどなくなってしまった。徳川時代の前半に刊行された版本が数点残っており、それが書物として流通してもいるので、わずかにそれを頼りに雰囲気の一端に触れることができるばかりである。それでも、説経というものが持っていた、怪しい情念の世界が、現代人にも激しい感動を呼び起こす。日本人の意識の底に、澱のようにたまっている情動のかたまりが、時代を超えて反響しあうからであろう。

説経が芸能としてもっとも盛んだったのは、慶長から元禄にかけての頃とされる。徳川時代初期のほぼ17世紀いっぱいに重なる時代である。この時代は、浄瑠璃もまた盛んに行われていて、両者は相互に影響しあい、説経も三味線や操り人形を取り入れて、元禄の頃には、劇場芸能としての体裁を整えていた。

劇場に進出する以前の説経は野外の芸能であった。「洛中洛外図」の一つに、三十三間堂境内で説経を演ずる者達の様子を描いたものがあるが、そこに描かれている説経者は、土の上に敷かれた莚の上に立ち、長い柄の大傘をかざし、両手でささらをすりながら語っている。説経者を取り囲む聴衆の中には、すすり泣いている者が描かれており、説経が演者と聴衆との間の、濃密な空間の中で語られていたことを想像させる。

莚と大傘とは、説経の目印であったようだ。莚を以て舞台となし、大傘を以て非日常の演劇的空間を創出せしめたのであろう。また、ささらは語りの効果を高めるための唯一の楽器であった。ささらは、竹の先を細かに割って、茶筅のような形にし、簓子と呼ばれる細い棒でこすって、「さらさらさら」という音を立てる。楽器というには、あまりにも原始的であるが、その「さらさら」という音が、時には緩く、時には急迫し、語りにムードを添えたのであろう。

ささらは説経の象徴のようなものであったから、説経を語るものを「ささら乞食」といった。中世における説経は、乞食同然の漂泊の者たちによって語られたのである。彼らの前身は、あるいは念仏聖や高野聖のような遊行僧であったかもしれない。これらの遊行僧たちも、各地の寺院を拠りどころにしながら、全国を漂泊して、説教や念仏語りをしていたのである。しかし、中世も後期になると、説経者たちは、逢坂の蝉丸神社を拠点にして、芸能者として職能集団を作り、各地の寺院の広場において、聴衆を相手に語るようになった。

中世の大寺院は、大勢の人が集まる場であり、またアジールとしての役割も果たしていた。非日常的な空間として、芸能者の営為が成立しやすかったのである。

説経の題目は、「かるかや」や「さんせう太夫」など、五説経と呼ばれるものを中心にして、その数はあまり多くはなかったようである。それらの比較的古い形のものを見ると、神の縁起を語る本地物という体裁をとっている。たとえば、「をぐり」の場合には

「そもそもこの物語の由来を、詳しく尋ぬるに、国を申さば美濃の国、安八の郡墨俣、たるいおなことの神体は正八幡なり、荒人神の御本地を、詳しく説きたて広め申すに、これも一年は人間にてやわたらせたまふ、凡夫にての御本地を、詳しく説きたて広め申すに・・・」

とあるとおり、この物語の二人の主人公、小栗判官と照手姫の、神となる以前の姿を語るのだといっている。「をぐり」にせよ、「さんせう太夫」にせよ、説経の中で語られる世界は、きわめて宗教性の強いものであった。しかしそれは整然とした教義を説くようなものではなく、救いや再生といった民衆の願いに直接うったえる、情念的な世界であった。

中世の民衆は、戦乱の中で抑圧され、この世に希望をもてないものが多かったに違いない。そんな彼らに向かって、説経者たちは、抑圧と開放、死と再生、憎しみと愛を語った。語りの一々は、時にはおだやかに、時には荒々しく、人間の情念を飾りなく表現したものであり、当時の民衆の心に直接訴えかける言葉からなっていた。

説経の主人公は、抑圧されたものであり、乞食同然の下層民として描かれている。かれらは、重なる迫害に耐えながらも、自分の強い意志によって行動し、最後には抑圧者に残酷な復讐を成し遂げる。聴衆は、説教のこんなところに、自分の魂の開放を感じ取ったに違いない。

このように、説教というものは、演者と民衆との間の濃密な空間の中で語られることにより、民衆のエネルギー、つまり愛や情念といったものを蓄積していったのであろう。その愛や情念が人間の本源を照らし出す限りにおいて、時代を超えた普遍性へとつながっていったのである。

説経は、元禄時代に劇場芸能として最盛期を迎えた後、浄瑠璃との競争に敗れて、芸能の表舞台から消え去った。浄瑠璃が、近松門左衛門をはじめ、新しい作品を導入して時代の要請に応えたのに対し、説経はあまりにも古体にこだわった結果であった。

衰退期の説経について、儒学者太宰春台が「独語」の中で、次のように書いている。

「昔より法師の説法に、因果物語をする類あり、其物語は俗説に任せて慥ならぬ事も多けれども、詞は昔の詞にて賤しき俗語を交へたる中に、やさしき事も少からず、其の上幸若の舞の詞の如く、昔より定れる数ありて、いつも古きことのみを語りて、今の世の新しきことを作り出さず、其の声も只悲しきのみなれば、婦女これを聞きては、そぞろに涙を流して泣くばかりにて、浄瑠璃の如く淫声にはあらず。」

徳川時代後期、説経は都会から離れ、農村部を舞台にして、乞食同然の者が門付けしながら語るものに成り代わった。維新の後、薩摩太夫という説教師が会津にはいったところ、会津のひとびとが仇敵薩摩を名乗るものだといって、太夫を迫害したため、薩摩太夫から若松太夫へと名を改めた、こんなエピソードもある。




● さんせう太夫(山椒大夫―安寿と厨子王の物語)
● 説経「をぐり」(小栗判官)
● ボートシアター公演 「小栗判官照手姫」
● 説経「かるかや」(刈萱―中世人の遁世観)
● 説経「しんとく丸」(観音信仰と被差別者の絶望と救済)
● 愛護の若(恋の遺恨と救いのない漂泊)
● 説経の節回し(哀れみて傷る)




HOME






作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである