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日本人のパンパン・コンプレックス(その十)


敗戦後76年たった今日、日本人とくに男たちの間に強く根付いたパンパン・コンプレックスは、どのような状態にあるだろうか。次第に弱まってきたのか、それとも逆にますます強まってきたのか。それを分析するためには、パンパン・コンプレックスの二つの大きな要素たる対米従属と男女のバランスそれぞれについて、具体的に見ていく必要がある。

まず、対米従属について。ここで確認しておきたいのは、従属には二つの形態があるということだ。強制されての従属と、自主的な従属である。敗戦後の対米従属は、征服者としてのアメリカから強制された面が強い。その強制に恐怖と劣等感が加わって、対米従属を構造化させたといえる。しかし、強制された従属は長持ちすることはない。よほど意気地のない民族でない限り、強制的な支配・従属関係は強い抵抗を伴なうものである。近代の世界史がそれを物語っている。他民族の植民地支配や、領土の侵略といったものは、被支配者の強い抵抗に直面して破綻せざるをえなかった。だから、支配・従属関係が長続きするためには、特別の条件が必要となる。被支配者が自分の意志で積極的に従属を受け入れることである。これを自主的な従属という。

戦後日本の場合、対米従属は、強制された従属として始まったが、次第に日本側の積極的な従属という面を強めてきたと言える。従属は、政治的な部面と、社会的・文化的な部面にわたるが、その両者を通じて、日本は対米従属を深化させてきた。それはパンパン・コンプレックスの深化を意味する。政治的な対米従属は、主に安全保障の面で強く表れているが、それにとどまらない。安全保障は互恵的なものである。従属があれば、その見返りに安全を補償してもらえるという関係がなければならない。しかし日本の対米従属は、そうした互恵関係を超えて、日本の一方的な屈従という性格が強い。米軍への治外法権的な特権付与などはその典型的な事例である。そうした日本の従属的な姿勢は、沖縄における米軍基地建設問題に象徴的に表れている。日本政府は、沖縄の人たちの命よりも、米軍の利便のほうを優先してきたのである。

社会的・文化的部面での対米従属は、さらに自主的な外見を示している。奇跡的といわれる戦後の経済成長がアメリカの恩恵によるものだと、日本の支配者はよくわかっていて、日本は進んでアメリカの僕として振る舞ってきたのである。経済以外の社会システムや文化の部面においても、アメリカナイゼーションという言葉で表現されるような事態が進んだ。日本はいまや、アメリカのコピーとして、ミニ・アメリカといってよいほどである。アメリカはそんな日本を非常に気に入り、できればほかの国も、日本と同じように作り直したいと思ったほどだ。戦後のアメリカは世界中で紛争の種をまいてきたが、その目的は、日本のようなミニ・アメリカを世界中に広げることだった。しかし、その思惑は成功しなかった。日本のように従順な民族性は例外なのであって、自主独立にこだわるというのが、普通の民族の姿勢だということを、アメリカは忘れていたのである。

日本がアメリカに簡単に従属したのは、それも自主的に従属したのは、「長いものに巻かれろ」といった日本人の卑屈な民族性が強く働いた結果だと思われる。たしかに日本人には、強いものにあこがれ、弱いものを足蹴にする傾向が強く見られる。そうした傾向が、近年世界中に台頭した新自由主義的風潮を、もっとも素直に受けいれた土壌になっている。日本ほど、弱肉強食の傾向が強い民族はないといってよいほどである。

強いものにあこがれ、弱いものを足蹴にする傾向は、いわゆるいじめの文化を繁茂させた。いじめの現象はどんな国にも見られるものだが、日本ほどそれが、社会の基本的な特徴にまでなっている国はない。日本におけるいじめは、すでに小学校の段階ではじまっている。小学生同士のいじめも陰湿なものだが、大人の間でのいじめは、陰湿かつ醜悪である。それは、日本においては、弱いものをいじめることにリスクが伴わない現実があるからだ。それがわかっているから、いじめる側は安心して弱いものを叩くことができる。人間相互の関係は、非対称的になるほど、残酷な様相を呈するものなのである。

いじめが日本において最大限にグロテスクな様相を呈したのは、眞子さんの結婚問題に関して生じたケースだ。この問題では、皇室という、国民の声に対して反論できない立場のものにたいして、リスクを考えないですむことから、したり顔のいじめ屋が口をとんがらして誹謗中傷を繰り返した。そのさまは気ちがい沙汰というほかはなかった。その気ちがいじみた連中が弱いものいじめに興じるさまは、今の日本が陥っている異常な対米従属と無関係ではない。自分が強いものに支配されていると感じているものは、自分より弱いものを支配したがるものなのである。それを政治学では「抑圧の委譲」と呼んでいる。抑圧の委譲は、敗戦前にもあったものだが、敗戦によって対米従属が強まって以来、そのレベルを上げたといってよい。日本がアメリカに屈服しながら、周辺のアジア諸国に対して横柄に振る舞うのも、抑圧の委譲の例である。

こういうわけであるから、日本社会におけるいじめの深化は、パンパン・コンプレックスの最大の副産物だといえよう。

次に、男女の関係について。これは女と男の力のバランスをめぐる問題だ。パンパン・コンプレックスは、とりあえず女の地位の向上を許した。しかし男たちは心を入れ替えて女を尊重するようになったわけではない。日本の男性優位原理は、たかだか明治時代以降に確立されたもので、日本の歴史においては、例外的な現象といってよいものだったが、一旦女に対する優越的な地位を享受した男たちは、それを簡単に手放すことは納得できるものではなかった。それゆえ、当初は女に向かって下手に出ていたものの、なんとかして男優位の体制を復活させたいと強く願った。したがって、戦後日本の男女関係は、どちらが主導権を握るかをめぐっての、仁義なき戦いに陥る運命にあったといえなくもない。男女間で仁義なき戦いが繰り広げられるというのは、ある意味異常なことである。男女は、両方いてこそ存在意義を持っているのであって、どちらか一方だけでは成り立たない。男女ペアになって、はじめて類的存在としての人間になるのである。じっさい、支配者の国であるアメリカをはじめ、世界中どの国でも、男女は睦ましい関係を築いている。男女が互いに仁義なき戦いに血眼をあげているのは、日本以外には見当たらないのではないか。

女を再び服従させたいという男の野望は、そう簡単には実現しない。女はしたたかだから、女のやり方で男を手なずけている。男ができることは、お人よしの女を逆に手なずけて、男の味方にすることくらいだ。だが、この戦法は意外と効果をおさめてもいる。数が少ないと言われる日本の女性政治家たちには、男以上に男的な発想をしているものが多い。俗に、「頭のいかれた女は、頭のおかしな男より始末が悪い」と言われるが、それを如実に感じさせる女性政治家が多い。彼女らは、男以上に、女の抑圧に熱心なのである。たとえば、夫婦別姓は日本の美風を損なうと叫んでいるのは、男より女の政治家に多いのである。そんなわけで、パンパン・コンプレックスが女にもたらしたプラスの効果は、次第に縮減されようとする傾向にある。

以上、小生は、パンパン・コンプレックスの問題を主として女目線から考察してきた。小生自身、女を心から敬愛しているし、日本文化の伝統は女が作りあげてきたという認識なので、女がその本来の姿にふさわしい尊敬を受けるのは当然だと思っている。そうした思いの一端は、パンパン・コンプレックスを通じて実現されもしたが、近年は再び、男性優位の原理が力を得つつあるように思える。日本が男性優位だった時代は、長い歴史の中で例外だったといえるのであるし、その時代は、日本にとって破滅的なものだったわけだから、小生はパンパン・コンプレックスがもたらした女性原理の優位が、今後も受け継がれていくことが、長い目で見て望ましいと思っている。日本は本来、女性的な国柄なのであるから。



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