日本語と日本文化
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日本人のパンパン・コンプレックス(その九)


パンパン・コンプレックスは、被支配感情としての対米劣等感と、女を征服者に奪われたことにともなう喪失感とを主な要素としていた。このうち、対米劣等感が基本的には対米従属体制をもたらしたことは、上に述べたとおりである。一方、女を奪われたことにともなう喪失感は、より複雑な現れ方をした。それは一方では、なんとかして自分を見捨てた女を取り戻すために、女のご機嫌をとるような方向に働き、他方では、女の前で失われた男の尊厳を回復したいという希求となってあらわれた。つまり、女を求めながらその女を憎むという、両義的なものであった。

女のご機嫌取りという点では、男のほうにもメリットがなかったわけではない。女たちがアメリカ兵になびいたのは、貧弱な日本の男たちの肉体に比較して、たくましい米兵の肉体が魅力的だったということもあるが、なんといっても、米兵たちがもたらした文化が女たちを魅了した。ジャズやダンス、開放的な男女交際は、それまでの日本にはなかったか、あるいは微弱なものに過ぎなかった。一部の男女がジャズやダンスを楽しむことはあったが、大部分の男女は、浪花節を聞き、盆踊りを楽しむのがせいぜいだった。女たちは、盆踊りは好きだったかもしれないが、浪花節を聞かされるのはうんざりだったに違いない。そこに米兵がジャズとダンスを持ち込んだ。それは女たちにとって清新な息吹に思われた。彼女たちが、日本の男に愛想をつかして、外国の男になびいたのは、単に戦争に負けた意気地なさを笑っただけではなく、アメリカ文化にかぶれたという事情もあったのである。

ジャズやダンスは、日本の男たちにとっても魅力がなかったわけではない。自分自身面白く思えたからだ。それに女たちの気を引くためには、浪花節など唸っている場合ではなかった。男たちは、短足矮躯に巨大なギターを抱え、舞台で飛び跳ねては女たちの歓心をかおうとした。一時期大流行したしたロカビリーなどは、男が女に媚びるという、従来とは真逆の現象が日本を席巻した例である。日本の男たちにとって、女に気に入られようと思うなら、進んでアメリカ文化を身につける必要があった。これを文化のアメリカナイゼーションというが、それは政治における対米従属と並行的に進んだものだったといえる。

こんなわけで、敗戦後の日本文化は、女が主導的な役割を果たした。その背景には、征服者アメリカの影があった。女たちは、征服者たるアメリカの威光を利用して、男たちへ逆襲したのである。敗戦まで、女たちは男によって支配され、男の付属物のように扱われながら、その男たちが起した戦争で一番ひどい目にあわされた。だから、女たちが男たちへ仕返ししたいと思うのは無理もない。そんな女たちを前に男たちは、当初はなすすべがなかった。女たちが日本の男を捨てて米兵になびくのを指を咥えて見ているほかはなかったのである。

もっとも日本の男たちのすべてが、女に遠慮がちだったわけではない。すでに性的な機能を失って女に欲情しなくなった老人は論外にして、比較的若い男の中にも、女の傍若無人ぶりに怒るものはいた。石原慎太郎はその代表的なものである。一方、石原の親友江藤淳は、アメリカによる日本の文化的支配に怒りを表明した。江藤は、日本の言論界がアメリカの検閲制度によって骨抜きにされ、あたかもアメリカのエージェントのように振る舞っていることに怒りを表明したものだ。しかしそうした動きは少数派だった。大部分の日本人は、民主化という名のアメリカナイゼーションを受け入れたのである。

その最も熱心な賛同者は女たちだった。女たちは、アメリカによって与えられた新憲法のなかでも、男女同権と平和主義にもっとも大きな価値を見出した。男女同権はまず女性参政権の確立という形で現れたが、その後、職業選択や結婚などの部面でも女の権利拡大が進んでいった。男たちにはそれを、苦々しい目で見る者もいたが、おおむね男女同権は社会のコンセンサスになっていった。女が再び男の付属物の境遇に陥ることを拒否したからである。日本の女たちは、権利は基本的には外から与えられるものではなく、自分たちで勝ちとるものだという智慧を持っていた。新憲法はアメリカによって与えられたものだが、一旦与えられたうえは、自分たちの手でそれを守り育てなければならない。そうでなければ再び男たちへ隷従してしまう。そう考えるだけの智慧を、日本の女たちは持っていたのである。

新憲法の平和主義については、愚かな指導者たちのおかげで国が亡びるという憂き目を見させられた日本人の中でも、女たちの怒りはすさまじかった。敗戦後の日本は、戦争アレルギーともいえるほどの強い反戦感情を持つようになったが、それを主に担ったのは女たちだった。「戦争はもうこりごりだ」という言葉がはやったものだが、その言葉を最も感慨深く発言したのは女たちだったのである。新憲法の平和主義は、そうした女たちの反戦感情に、法的な保護を与えた。敗戦までは、戦争に反対することは絶体に許されない社会的雰囲気が支配していたが、新憲法のおかげで、公然と戦争反対を主張することができるようになった。これは非情に大きな変化である。もっとも好戦的な政治勢力でさえも、表立って戦争を賛美することが出来づらくなった。戦後の日本は、世界史上希に見る反戦的な国柄といってよかったが、それが新憲法のもたらした産物だったことは間違いない。だが、憲法が変わったからといって、国民の性格まで激変するわけではない。国民の性格が変わるためには、国民自体の主体的な変化への動きが必要である。戦後の日本では、女の間の強い反戦感情が平和への希求をもたらし、それを憲法が法的に保護するという構図ができあがたと考えるべきであろう。

こうして見ると、パンパン・コンプレックスは、一方では抑圧された被支配感情が、自主的な対米従属としてあらわれ、他方では、日本を女性優位の社会に変えて行ったといえるのではないか。対米従属は、政治の面だけではなく、文化や経済・社会システムの面でも見られた。戦後日本の奇跡的な経済復興はアメリカの遂行した戦争に便乗する形で実現したものだ。日本は朝鮮特需とかベトナム特需とかいわれたアメリカの対外戦争にさいして、その兵たん基地としての役割を果たすことで、戦後復興を果たした。こうした外需依存の経済構造は、21世紀の今日に至るまで、基本的には変わっていない。そういう意味では、戦後日本の政治的・文化的・社会的な構造は、パンパン・コンプレックスの賜物であったと、あらためて確認することができる。

なお、社会システムの部面では、戦後日本に民主主義が定着したことをあげねばなるまい。その民主主義もまた、新憲法という形で、アメリカによって与えられたものだが、日本人はそれを嫌々ながら受け入れるのではなく、むしろ進んで受け入れた。そのほうが対米従属という不名誉な事態を糊塗することに役立つからである。アメリカとしては、日本を自分のコピーとして作り直すことで、アメリカにとって便利な従属国を作るくらいの気持ちだったと思われるが、日本側は、アメリカに従属することから、経済的なメリットをはじめさまざまな恩恵が期待できた。その期待が、進んで対米従属を受け入れる事態につながったのだと思う。

平和といい、民主主義といい、それによってより大きなメリットを享受するのは女たちである。日本の国柄はもともと女性的なものを重視したシステムから成り立っていたが、それが明治時代以降のわずかの間に、男性優位の社会に変わってしまった。そうした変化の先に待っていたのが敗戦とそれにともなう国の滅亡であった。その敗戦は男たちには屈辱以外のなにものでもなかったが、女たちにとっては、よりましな社会の到来の可能性を意味した。国破れても女は残ったからである。その女たちがよく働いて、日本を再び女性原理を重視する社会に作り直そうとしてきた。それが戦後日本の姿だったように思う。



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