日本語と日本文化


狂言「素袍落」


小名狂言というのは、主従の物語のうち、太郎冠者がシテとなるものである。それに対して主人がシテとなるものを大名狂言と称する。小名狂言には、主従二人だけの話もあれば、それに第三者が加わるものもある。「素袍落」では、この第三者が主人以上に大きな役割を果たす。太郎冠者は第三者たる伯父御とのあいだで、当意即妙の笑いの世界を繰り広げるわけである。

素袍とは直垂の簡素化したもので、室町時代においては庶民の礼装に用いられていた。主人の伊勢参りのお供に行くことになって、伯父御から餞別として素袍をもらった太郎冠者が、酔いと喜びからこの素袍を落してしまい、それを主人に拾われていじわるされる、という単純な筋書きだ。

最も面白い場面は、使いに出された太郎冠者が伯父御の引き留めに会い、そこで酒を振る舞われるところだ。洒落た会話に乗せて、太郎冠者が酒を飲む仕草をする。飲むほどに酔いが回り、太郎冠者は次第に大胆になっていく。大胆になった挙句主人の悪口をいう。だが自分に振る舞い酒をしてくれる伯父御には、終始追従笑いをする、人間のあさましさを十分に感じさせてくれるというわけだ。

ここでは先日NHKが放映した大蔵流の舞台を紹介しよう。シテは山本東次郎、アドは、山本則重、同則俊だった。

舞台にはまず主人が登場し、明日伊勢参りにいくべき由を語る。ついで太郎冠者を呼び出し、伯父御のところに使いに行くべき旨を命じる。かねてから伊勢参りの共をしようと約束していたので、同行の意向を確認しろ、急なこと故断るだろうが、その際お供は誰じゃと聞くだろう。そうしたらまだ決まっていないと答えろ、という。

「あの伯父御は、気の付かれた人じゃによって、汝が供に行くと聞かれたならば、定めてはなむけをとらせらりょう。そうあれば下向の時分、あちのうちの者へ、めいめいに土産をやらねばならぬ。とかく互のぞうさはいらぬものじゃによって、まだ知れませぬと言うておけ」というのだ。

太郎冠者から伊勢参りの話を聞かされた伯父御は、自分は行けぬと断ったうえで、誰がお供するのかと聞く。太郎冠者は主人に言い含まれた通り、まだ決まっていないと答える。叔父御は、明日の事がまだ決まっておらぬわけがない、きっとお前がお供するに違いないといって、門出に酒を飲ませてくれることになる。

太郎冠者「それは慮外に存じまする。それならば、めでたい門出でござるによって、お酌で一ついただきましょうか。
伯父「それがよかろう。つぐぞよ。ソリャ、ソリャ、ソリャ、ソリャ。
太郎冠者「オオ、ちょうどござる。

だが太郎冠者はたった一杯では風味がよくわからぬからと、もう一杯所望する。

伯父「これはもっともじゃ。いま一つ飲うで風味を覚えい。
太郎冠者「たびたび慮外にござる。
伯父「苦しうない。ソリャ、ソリャ、ソリャ、ソリャ。
太郎冠者「オオ、また一つござる。

この酒は遠来の銘酒だと、伯父御が自慢する。

太郎冠者「ヤア、ご遠来。
伯父「なかなか。
太郎冠者「申さぬことか。常の御酒ではないと存じてござる。御遠来とござらば、いま一ついただきましょう。
伯父「オオ、数よう三献飲め。
太郎冠者「たびたび慮外にござる。
伯父「苦しうない。ソリャ、ソリャ、ソリャ、ソリャ。
太郎冠者「オオ、またなみなみとござる。

太郎冠者は伯父御をほめたたえる。それは飲ませてもらったことで追従をいっているのだろうと、伯父御がいうと、自分はそんなさもしい人間ではないと、太郎冠者は反論する。あまつさえ、もっと飲ませろと、よった勢いで図々しく催促する。叔父御が半分継いでやろうというと、そんなけち臭いことを言わずになみなみ注げと強要する。

伯父「それならばついでやろう。ソリャ、ソリャ、ソリャ、ソリャ。
太郎冠者「オオ、またちょうどござる。

散々酔っぱらった太郎冠者に、伯父御がいいものをやろうという。酒だと思った太郎冠者は、もう沢山だと断るが、伯父御が出してきたものは一着の素袍だった。

主人のきつい言いつけを思い出した太郎冠者は、受け取るわけにはいかぬと断るが、伯父御に知恵をつけられてそれを受け取る。そしてそのお礼に、

「まずこなた様へはめでとうお祓い、奥様へは伊勢おしろい、わこ様方へは愛らしゅう笙の笛をあげましょう」という。

こうしてすっかり上機嫌になった太郎冠者は主人のもとに帰っていくが、主人は太郎冠者の機嫌のいい理由を察知して、太郎冠者が大事に持っていた素袍を落したところを、拾い上げて隠してしまう。

そこから主従のおかしなやり取りが展開し、最後には素袍を取り戻した太郎冠者が喜び勇んで退場する。それを追いかけながら主人も退場して幕となる。

太郎冠者「アラ嬉しや嬉しや。
主人「アノ横着者、捕らえてくれい。やるまいぞやるまいぞ。やるまいぞやるまいぞ。


    


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