狂言「宗論」
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狂言「宗論」は、浄土僧と法華僧との論争をテーマにしている。この二つの宗派は、鎌倉時代以降の新興宗教のなかでも、もっとも活動的で、布教にも熱心なことで知られていた。だからこの二つの宗派の間の論争は、時には戦闘的な色彩を帯び、人々の強い関心を引いたと思われる。
この作品は、そんな両者の宗教論争をテーマにしているのだが、単に宗教観の違いを強調するのみならず、民衆の間にあったと思われる、偏見のようなものも取り込んでいる。たとえば、法華宗は京都で強い勢力を振るっていたところから、都会的ではあるが、計算高い、浄土宗のほうは地方に深く根を下ろしていたことから、朴訥だが田舎臭い、といった具合だ。
この作品は、そうした民衆の偏見を踏まえて、それぞれの僧に、次のような自己認識を披露させることから、始めている
法華僧「南無妙法蓮華経、蓮華経の経の字を、狂せんと人や思ふらん
浄土僧「南無阿弥陀仏の六つの字を、むつかしと人や思ふらん
経を狂に語呂合わせする所は、法華宗の戦闘的な性格を一言で言い表しているといえるし、南無阿弥陀仏六つの字をむつかしいというのは、浄土宗のきむづかしい側面を表しているのだろう。
さて出会った二人のうち、法華僧は相手がうるさく感じて逃げようとするが、浄土僧のほうは、論争をふっかけて楽しんでやろうと意気込む。浄土僧を田舎者のずうずうしい人物として描いているわけである。
浄土僧「なま長い経を読もうより、愚僧が宗旨にならしめ、身が宗態のありがたさは、ただ南無阿弥陀仏とさえ唱うれば、決定往生が疑ひない
こうして浄土僧は、ありがたくもない経など読むのはやめて、浄土宗に鞍替えするように迫る。それに対して、喧嘩を売られた形の法華僧も負けてはいない。
法華僧「ぐどぐどと、先へもいかぬ黒豆を数ようよりは、愚僧が宗旨にならしめ、愚僧が宗旨のありがたさは、南無妙法蓮華経と唱うることはさておき、お経をいただいても、即身成仏は疑いない
互いに自分の宗派の有難い所以を、くどくどと述べ始めるのだが、何せ教養のない連中だから、いうところは、どこか間が抜けている。
法華僧「それ法文さまざま多しといへども、なかにも五十展転の随喜の功徳とも、またありがたければ、涙とも涙とも説かせられた法文、何と聞いたことがあらうかの
浄土僧「それ法文さまざま多しといへども、なかにも一年弥陀仏即滅無量罪、さいともまたありがたければ、菜々とも説かせられた法文、何と聞いたことがあらうが
こじつけに近いような理屈を散々述べ合うと、両者とも疲れてしまう。そこでまづ法華僧が大の字になって眠り、その後を追って、浄土僧もふて腐れて寝る。だが目を覚ました後は、両者とも、論争がばかばかしくなって仲直りする、といった具合で、最後は狂言らしくさっぱりした終わり方をする。
浄土僧「げに今思ひ出だしたり、昔在霊山名法華、
法華僧「今在西方名阿弥陀、
浄土僧「娑婆示現観世音
法華僧「三世利益
浄土僧「三世利益
両者「一体と、この文を聞くときは、この文を聞くときは、法華も弥陀もへだてはあらじ、今より後はふたりが名を、今より後はふたりが名を、妙阿弥陀仏とぞ申しける
今回筆者が紹介したのは、先日NHKが放送した和泉流の狂言、万蔵、万作の人間国宝兄弟が演じていた。
50分近い大曲で、最初の部分では囃子方も入る。笛は汽笛を鳴らすような短い吹き方、大小の鼓も床に尻を落としての、変則の打ち方が印象深かった。
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