日本語と日本文化


能「黒塚」:安達が原の人食い鬼


安達が原の人食い鬼伝説を能にしたものを、観世流では「安達が原」といい、他の流派では「黒塚」という。両者をあわせると「安達が原の黒塚」となり、鬼の住処を表すというわけである。しかし伝説と言っても、古来あったものではなく、能が先にあって、其れが民間に広まったということらしい。

前後の二段からなる。前段は、旅の山伏一行が人里離れたところで夜を迎え、老婆の住むあばら家に一夜の宿を借りる場面で、老女が糸車を繰りながら昔を懐かしみ、その後に、薪を取りに裏の山に消えていく。其の際老女は、自分の留守中に決して閨を覗かぬようにと言い残していく。そこで老女の言葉に関心をそそられた従者の能力が、主人の静止を振り切って覗いてみると、閨の中にはたくさんの死体が積み重なっていて、血を流したり腐乱しているのが見える。驚いて主人に報告すると、主人らは一目散に逃げていく。

後段は、老女が鬼の姿で現れ、約束を破った山伏たちに襲い掛かるところが描かれる。山伏たちは数珠を揉みながら呪文を唱え、その法力によって辛くも逃れるという筋書きである。

道成寺、葵の上とともに三鬼女と称されているが、ほかの二作がシテが脇に直接の恨みを持たないのに対して、この曲は、自分を裏切った脇に向かって、シテの老女が鬼となって襲い掛かるという、いわば復讐劇の形をとっている。

裏切られた老婆の恨みがテーマであるから、鬼は山伏たちをただ食おうというのではなく、懲らしめようという態度を取る。そこが他の鬼の話とは異なるこの曲の独特なところだ。

ここでは先日NHKが放送した喜多流の舞台を紹介する。シテは塩津哲生、ワキは福王茂十郎だった。

舞台には作り物が据えられ、その中にはシテの老婆があらかじめ潜んでいる。そこへワキの山伏とワキツレがやってくる。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)

ワキ(那智の東光坊の阿闍梨祐慶)たちは熊野を旅立って諸国巡回(廻国行脚)をするうちに陸奥の安達が原で日が暮れる。

ワキ、ワキツレ二人 次第「旅の衣は篠懸の。旅の衣は篠懸の。露けき袖やしほるらん。
ワキサシ「これ那智の東光坊の阿闍梨。祐慶とは我が事なり。
ワキツレ二人「夫れ捨身抖〓{大漢和:12912 ソウ}の行体は。山伏修行の便なり。
ワキ「熊野の順礼廻国は。皆釈門の習なり。
三人「然るに祐慶此間。心に立つる願あつて。廻国行脚に赴かんと。
歌「我が本山を立ち出でて。我が本山を立ち出でて。分け行く末は紀の路がた塩崎の浦をさし過ぎて。錦の浜の。をり/\は。なほしほりゆく旅衣。日も重れば程もなく。名にのみ聞きし陸奥の。安達が原に着きにけり。安達が原に着きにけり。

脇たちは人里離れたところに立っている一軒家を見つけ、そこで一夜を過ごさんものと案内を乞う。すると作り物の中から老婆が出てきて、最初のうちは断るのだが、そのうちに相手に同情して宿を貸すことにする。

ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これははや陸奥の安達が原に着きて候。あら笑止や日の暮れて候。このあたりには人里もなく候。あれに火の光の見え候ふ程に。立ちより宿を借らばやと存じ候。
シテサシ「実にわび人の習ほど。悲しきものはよもあらじ。かゝる憂き世に秋の来て。朝けの風は身にしめども。胸を休むる事もなく。昨日も空しく暮れぬれば。まどろむ夜半ぞ命なる。あら定めなの生涯やな。
ワキ詞「いかにこの屋の内へ案内申し候。
シテ詞「そも如何なる人ぞ。
ワキツレ「いかにや主聞き給へ。我等始めて陸奥の。安達が原に行き暮れて。宿を借るべき便もなし。願はくは我等を憐みて。一夜の宿をかし給へ。
シテ「人里遠き此野辺の。松風はげしく吹きあれて。月影たまらぬ閨の内には。いかでか留め申すべき。
ワキ「よしや旅寐の草枕。今宵ばかりの仮寐せん。ただ/\宿をかし給へ。
シテ「我だにも憂き此庵に。
ワキ「たゞ泊らんと柴の戸を。
シテ「さすが思へば痛はしさに。
地歌「さらばとゞまり給へとて。樞を開き立ち出づる。異草も交る茅莚。うたてや今宵敷きなまし。強ひても宿をかり衣。かたしく袖の露ふかき。草の庵のせはしなき。旅寐の床ぞ物うき。旅寐の床ぞ物うき。

家の中に通されたワキは、そこに置かれている糸車に興味を覚え、それは何の用をするのかと尋ねる。そこで老女は、その糸車を繰りながら、昔語りを始める。この部分がこの能の前半の見どころだ。

ワキ詞「今宵の御宿かへすがへすも有難うこそ候へ。またあれなる物は見馴れ申さぬ物にて候。これは何と申したる物にて候ふぞ。
シテ詞「さん候。これはわくかせわとて。いやしき賎の女のいとなむ業にて候。
ワキ「あらおもしろや。さらば夜もすがら営うでお見せ候へ。
シテ「実に愧かしや旅人の。見る目も恥ぢずいつとなき。賎が業こそものうけれ。
ワキ「今宵とどまる此宿の。主の情深き夜の。
シテ「月もさし入る。
ワキ「閨の内に。
地次第「真麻苧の絲を繰返し。真麻苧の絲を繰返し。昔を今になさばや。
シテ「賎が績苧の夜までも。
地「世わたる業こそものうけれ。
シテ「あさましや人界に生を受けながら。かゝる憂き世に明け暮らし。身を苦しむる悲しさよ。
ワキサシ「はかなの人の言の葉や。まづ生身を助けてこそ。仏身を願ふ便もあれ。
地「かゝる憂き世にながらへて。明暮ひまなき身なりとも。心だに誠の道にかなひなば。祈らずとても終になど。仏果の縁とならざらん。

糸車を座った姿勢で繰っていた老婆は、そのまま居グセに流れていく。地謡とのやりとりをしながら、老婆は昔の若かった頃のことを思い出して感慨にふける。老いの嘆きの一節である。

クセ「唯これ地水火風の仮にしばらくも纏りて。生死に輪廻し五道六道にめぐる事唯一心の迷なり。凡そ人間の。あだなる事を案ずるに人更に若きことなし終には老となるものを。かほどはかなき夢の世をなどや厭はざる我ながら。あだなる心こそ恨みてもかひなかりけれ。
ロンギ地「扨そも五条あたりにて夕顔の宿を尋ねしは。
シテ「日陰の糸の冠着し。それは名高き人やらん。
地「賀茂のみあれにかざりしは。
シテ「糸毛の車とこそ聞け。
地「糸桜。色もさかりに咲く頃は。
シテ「くる人多き春の暮。
地「穂に出づる秋の糸薄。
シテ「月に夜をや待ちぬらん。
地「今はた賎が繰る糸の。
シテ「長き命のつれなさを。
地「長き命のつれなさを思ひ明石の浦千鳥音をのみひとり泣き明かす音をのみひとり鳴き明かす。

クセのあと、老婆は、夜が寒いので裏山まで薪を取りに行こうという。そして立ち上がって橋掛かりの方へ歩いていくが、ふと立ちとまって振り返ると、自分の留守中に決して閨の中を覗いてはならぬと言い残す。

シテ詞「如何に客僧達に申し候。
ツレ詞「承り候。
シテ「あまりに夜寒に候ふ程に。上の山に上り木を取りて。焚火をしてあて申さうずるにて候。暫く御待ち候へ。
ワキ「御志ありがたうこそ候、さらば待ち申さうずるにて候。やがて御帰り候へ。
シテ「さらばやがて帰り候ふべし。や。いかに申し候。妾が帰らんまで此閨の内ばし御覧じ候ふな。
ワキ「心得申し候。見申す事は有るまじく候。御心安く思し召され候へ。
シテ「あらうれしや候。かまへて御覧じ候ふな。此方の客僧も御覧じ候ふな。ワキツレ「心得申し候。

中入では、能力の間狂言が活躍する。能力は、老婆が山伏に言った言葉が気になって仕方がない。人の閨を覗くななどということは、当たり前のことなのに、その当たり前のことを、わざわざ山伏のようなものに向かって云うのは、なにか事情が隠されているに違いないと思うのだ。そこで、どうにかして閨の中を覗こうとするが、そのたびに山伏にたしなめられてなかなかできない。立ち上がって見に行こうとすると、寝ていたはずの山伏が起きて、制止するからだ。

しかしやっと三回目で、能力は閨の中を覗くことができる。するとそこにはすさまじい光景が広がっていた。沢山の死体や骨が積み重ねられていたのである。驚いた能力は山伏に報告する。山伏たちも閨の中の光景を見て仰天する。

ワキ「ふしぎや主の閨の内を。物の隙よりよく見れば。膿血忽ち融滌し。臭穢は満ちて膨脹し。膚膩ことごとく爛壊せり。人の死骸は数しらず。軒とひとしく積み置きたり。いかさまこれは音に聞<。安達が原の黒塚に。籠れる鬼の住所なり。
ワキツレ二人「恐ろしやかゝる憂き目をみちのくの。安達が原の黒塚に。鬼こもれりと詠じけん。歌の心もかくやらんと。
三人歌「心も惑ひ肝を消し。心も惑ひ肝を消し。行くべき方は知らねども。足に任せてにげて行く。足に任せてにげて行く。

山伏たちが逃げようとするところに、老婆が鬼女の姿となって現れる。老婆の面は般若に変っている。

ここで鬼女は山伏たちに襲い掛かろうとするが、山伏たちは数珠を揉み呪文を唱えて難を逃れようとする。両者入り乱れるうちに、法力が効果を現し、鬼女は夜風と共に消え去っていく。

出端又ハ早笛後シテ「如何にあれなる客僧。詞とまれとこそ。さしもかくしゝ閨の内を。あさまになされ参らせし。恨申しに来りたり。胸を焦がす炎。咸陽宮の煙。紛々たり。
地「野風山風吹き落ちて。
シテ「鳴神稲妻天地に満ちて。
地「室かき曇る雨の夜の。
シテ「鬼一口に食はんとて。
地「歩みよる足音。
シテ「ふりあぐる鉄杖のいきほひ。
地「あたりを払って恐ろしや。
イノリ ワキ「東方に降三世明王。
ツレ「南方の軍荼利夜叉明王。
ワキ「西方に大威徳明王。
ツレ「北方に金剛夜叉明王。
ワキ「中央に大日大聖不動明王。
三人「〓{大漢和:03770 アン}呼〓{大漢和:04502}々々旋荼利摩登枳。〓{大漢和:03770 アン}阿毘羅吽欠娑婆呵。吽多羅〓{大漢和:03302 タ咤}干〓{大漢和:49288 バン}。
地「見我身者。発菩提心。見我身者。発菩提心。聞我名者。断悪修善。聴我説者。得大智恵。知我心者。即身成仏。即身成仏と明王の。繋縛にかけて。責めかけ/\。祈り伏せにけりさて懲りよ。
シテ「今まではさしも実に。
地「今まではさしも実に。怒をなしつる。鬼女なるが。忽ちによわりはてゝ。天地に身をつゞめ眼くらみて。足もとは。よろ/\と。たゞよひめぐる。安達が原の。黒塚に隠れ住みしもあさまになりぬ。あさましや愧づかしの我が姿やと。云ふ声はなほ。物冷まじく。云ふ声はなほ冷まじき夜嵐の音に。立ちまぎれ。失せにけり夜嵐の音に失せにけり。


    


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